カテゴリ:ジェシー・ペン-ルイス
2. 妥協しない忠実さ 一点もたがえることなく神の御言葉に従うことが、モーセには絶対必要でした。パロは自分に天罰が下った時、交渉により妥協をはかろうとしました。しかし、モーセは神の御言葉から逸れるべきではありませんでした。もしモーセが少しでも主の期待に背いていたなら、イスラエルを解放するという主の御計画は台無しになっていたでしょう。モーセは一瞬たりとも、神から離れて行動しようとはしませんでした。 パロは「この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ」と言いました。モーセは「どうして国内でいけないことがあろうか?これ以上の妥協はもはや望めそうもない。」と言うこともできたはずです。しかし、モーセはその妥協案を呑みませんでした。なぜなら神は、エジプトを出て三日の道のりを旅するよう、仰せられたからです。ですから、モーセたちは何としても三日の道のりを旅しなければなりませんでした。 パロはふたたび「さあ、壮年の男だけ行け」と言いました。この提案も受け入れることはできません。なぜなら、神は「すべての人」と仰せられたからです。パロは次に「行け。.........ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。」と言いました。しかし、自分を立てて下さった方に忠実な神の僕は、妥協することなく、「私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。」と答えました。 神のすべての御言葉に絶対的に従うようになるまで、私たちは決して「顔と顔を合わせた」より深い神との交わりに導かれることはありません。 「神の友」と呼ばれるのは容易なことではありません。アブラハムはそのために多くの涙を流し、望みえない時に望みを抱いて「神は御言葉を成就して下さる」と信じつつ、苦難の時を過ごしました。モーセはイスラエルの苦難とパロの術策に直面しましたが、大きな代価を払って堅く神に従い続けました。 忠実さが実証され、信仰があらゆる試みを耐え抜いた時はじめて、私たちは顔と顔を合わせた神との交友を十分に経験することができます。 3. 神が責任を負われることを絶えず覚える 「自分が従っている方に信頼する時、完全な従順は完全な安息をもたらす」と言われてきました。これは真実です。だからこそ、私たちは神を知るよう努めなければならないのです。そうするなら、私たちは神の御旨をはっきりと知り、神の支配に完全に服することができます。 モーセは自分が従っている神を知っていました。それゆえ、彼は何一つ責任を負いませんでしたし、この世の君との戦いの行方についても尋ねようとしませんでした。「モーセは主に向かって叫んだ」という記述が繰り返し出てきます。モーセがそのように語った結果、パロはモーセではなく神を相手にしなければならないことを悟りました。 私たちはこのような神の使者でしょうか?メッセージを伝える時、私たちは自分を表立たせないようにしているでしょうか?私たちが遣わされた相手の人々は、使者ではなく神を相手にしなければならないことを悟っているでしょうか?ああ、恐ろしいことに、私たちの多くは霊の奉仕の第一の要素をほとんど学んだことがないのです!私たちは自分の小さな役柄に熱中するあまり、神と人との間に割り込んでしまいます。それどころか、私たちは主の御旨を知る方法を学ばなかったために、「このように主が言われる」と語ることを恐れさえします。 モーセが「主に向かって叫ぶ」時、事が成就することを、パロも知っていました!「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。自分の祈りが神の御旨にかなっているかどうかについて、モーセにはまったく疑う余地がありませんでした。「おお神よ、もしあなたの御心でしたら、この災いを取り除いて下さい」という祈りは、この場合役に立ちません。モーセは、裁きの撤回をくどくどと祈り求めませんでした。聖書は、モーセがパロに告げた言葉を記しています。「私は主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみます」。すると、「雷と雹はやんだ」(出エジプト記9:29, 33)! 意味のない祈りが多くなされる根本的な原因は、神に対する無知、神の御旨と書き記された神の御言葉に対する無知です。神が私たちに御旨を明らかに啓示して下さっているのですから、どうして私たちは「もしあなたの御旨なら.........」などと言う必要があるでしょう?私たちがなすべきことはただ、神に彼の御言葉を示して、「あなたが語られた通りになさって下さい」と大胆な信仰によって申し上げることだけです。神は、彼の子どもである私たちに、「信仰の祈り」についてまだまだ多くのことを教えなければなりません。「信仰の祈り」はその求めるものをすべて得ます。なぜなら、「信仰の祈り」は神の御旨に従って求めるからです。私たちは自分が何を祈るべきか知りません。しかし、聖霊は彼の御旨に関するあの直感的な知識を私たちに与えることができます。その知識は彼との親密な歩みから生じます。 ホレブ山での神との会見から始まった、従順と信仰の驚くべき生涯の記録を読み進んで行くと、事あるごとに「モーセは主に向かって叫んだ」という記述に出くわします。モーセが苦難と戦いを通して連れ出した人々が彼に逆らった時、彼は主に頼りました。忠実な僕は大胆に神に語り、反逆的なヘブル人たちに対する責任を何度も神に委ねました。 4. 大胆さ 「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11:27)。このヘブル人への手紙の短い御言葉は、モーセの大胆さが信仰から出ていたことをはっきりと示しています。また、この御言葉はモーセの全生涯に光を投じています。モーセの信仰は、彼が試練を耐え忍ぶにつれて、日に日に成長して行きました。モーセが試練を耐え忍ぶことができたのは、肉眼では見えない方を彼が信仰の目で見ていたからです。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)。モーセは信仰によってエジプトを立ち去りました。その信仰は、神がすべてを見通しておられることを信じる信仰であり、神が王の怒りから守って下さることを信じる信仰であり、神によって未知の荒野へと連れ出された未熟で無力な大群衆を、神が保護し供給して下さることを信じる信仰でした。 モーセにとって、「目に見える事柄」よりも神の方が大いなる現実になって行きました。そして、彼の信仰の歩みはますます大胆になって行きました。ついには、彼にとって、目に見えない方の方が目に見える事柄よりも確固とした現実になりました。モーセは王の王との交わりの中を恐れることなく歩んでいたのですから、どうして「王の怒り」を恐れる必要があるでしょう? 「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。」(ヘブル11:28)。イスラエルのために神の力と結合していたのは、モーセの信仰でした。神は、「小羊を殺してその血を注ぐなら、滅ぼすものが触れることはない」と仰せられました。モーセは神を信じ、「信仰によって」そのことを行ないました。モーセは、家の外で神の裁きが下されている間、まったく恐れませんでした。なぜなら、イスラエル人たちは屠られた小羊の血の下で保護されていたからです。 モーセの信仰はなんと素晴らしかったのでしょう!それはアブラハムの信仰よりも偉大でした。アブラハムは最初自分のために信仰を持ち、次にイサクのために信仰を持ちました。しかし、モーセは一国家の解放のための信仰を持っていました。 「信仰によって、彼らは、渇いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」(ヘブル11:29)。モーセは紅海を渡る危険を冒すことを恐れませんでした。なぜなら、彼は神に従っていたからです。モーセは主の御力の杖を用いて、手を海に向かって伸ばしました。モーセのわざには信仰が伴っていました。神はその信仰を実証されました。そして、信仰によってそのわざが完成され成就されました。海の水は分かれ、イスラエルは渇いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。イスラエル人は危険の中を進みましたが、エジプト人は後に続いて行こうとして災いに遭いました。 ああ!今日も同じではないでしょうか?生ける神の御言葉がなければ死に遭うような道でも、信仰があれば恐れずに歩むことができます。エジプト人は信仰の歩みを真似しようとしましたが、溺れてしまいました。生ける信仰を真似しても、試みの時に立つことはできません。神の子供たちといえども注意する必要があります。神の命令と神の臨在の保証なしに、他の人々の歩みに従おうとしてはいけません。さもないと完全に失敗するでしょう。 おお、信仰は本当に、望んでいる事柄の保証であり、目に見えない事柄の証拠です!「信じる者には、どんなことでもできるのです」。主よ、私たちの信仰を増して下さい! 最後に、モーセの謙遜さについて簡単に述べましょう。イテロがチッポラと二人の息子を連れて荒野のモーセのもとにやってきました。その時モーセがイテロに示した姿勢を見ると、彼の謙遜さがよくわかります。モーセが神のなさったことをイテロに告げると、イテロは喜びました。その後、民の間のはてしない争い事をモーセが一人で解決しようとしているのを見て、イテロは他の人々に仕事を分配することを提案して言いました、「もしあなたがこのことを行なえば、--神があなたに命じられるのですが、--あなたはもちこたえることができるでしょう。」(出エジプト記18:23)。モーセはイテロの提案を拒否しませんでした。なぜなら、モーセはそれまで個人的に神に導かれてきたからです。モーセが提案を受け入れたこの事例は教訓的です。神を深く知ることを学んだ人は、他の人々の話に敬意を払って、注意深く、喜んで耳を傾けることができます。 モーセをシナイ山での「顔と顔を合わせた」交わりにもたらすのに、イテロは重要な役割を果たしました。もし、イテロの賢明な助言がなく、神の僕モーセに素直な心がなかったなら、モーセが四十日間神のもとに行っている間、宿営は混乱したでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月06日 09時49分34秒
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