301190 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

イエスの喜びと満足のために☆

イエスの喜びと満足のために☆

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2008年12月07日
XML

「会見の天幕」での会談の後、モーセはふたたび山の頂に立つよう命じられました。主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともにそこに立って、主の名によって宣言されました。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」。主はこのようにご自分の性格と恵みをモーセに啓示されたので、彼は急いで地にひざまずき、伏し拝みました。

 モーセはふたたび、山頂で四十日四十夜過ごしました。後にモーセは、この二回目の神との長期の交わりで何があったのかを、イスラエルに話しました。「私は四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。.........それは、あなたがたが犯したすべての罪のためであり、.........その時、私はアロンのためにも、とりなしをした。」(申命記9:18-20)。

 モーセは、民のために犠牲になるという途方もない申し出をした後、民のために四十日間とりなしました。モーセが宿営に戻った時、彼の顔は主の栄光を反映して輝いていました。しかし、モーセはそのことに気づいていませんでした。その栄光があまりにもこの世のものとは異なっていたので、アロンと民はモーセに近づくのを恐れました。しかし、モーセは前と同じように、彼らを呼び寄せて、彼らと語りました。けれども、主を知らない人は、主の光の反映にさえ耐えられません。そこで、人々と語る時、モーセは顔を覆う必要がありました。モーセと彼の仲間たちを隔てていたのは、実のところ、主の臨在でした。今や彼の課題は、自分と会う人々を安心させることです。なぜなら、結局のところ、モーセはただの人間にすぎないからです。

 モーセは人々に対して覆いで隠されましたが、神に対しては隠されませんでした。なぜなら、モーセが行って主と語る時、覆いは取り除かれ、モーセが出てきて人々の間を行き来する時、再び覆いがつけられたからです。他の人々から分離されなければ、モーセはエホバと親しく交わることができませんでした。モーセはなんと孤独で孤立していたことでしょう!これが「顔と顔を合わせた」神との交わりの意味です。神の側から見ると、それは「顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く」生活です。しかし、この神との親しい交わりの結果、知らず知らずのうちに、また必然的に、他の人々に対して覆いで隠され、地上の物事から分離されます。また、ごく普通の生活という覆いの下でも隠されます。「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されない」、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。.........イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためです。」(2コリント6:9、4:7-11)。

この時から、神の御旨を民に伝えることがモーセの主要な働きになりました。聖書は告げています、「モーセという人は、地上のだれにもまさって柔和であった」(民数記12:3)。これが天的ないのちのしるしであり、神との親しい交わりの結果です。神の聖なる御子であるイエスは、ご自分について、「私は柔和で、へりくだっている」と言われました。主のいのちにあずかり、主と同じ姿に変えられて行くにつれて、私たちは神の目に尊い柔和さと穏やかな霊を現すようになります。

 「顔と顔を合わせて」神を見たこの人から、後に何度も柔和さが輝き渡りました。モーセはイスラエルのためにすでに大きな犠牲を払っていましたが、彼の悲しみと試練はますます大きくなって行きました。彼は四方八方から試みを受けました。彼は神の辛抱強さにあずかることを学んで、民と共に最後まで耐え忍ばなければなりませんでした。

 試みに次ぐ試みの中で、天的な霊が輝き渡りました。モーセが自分の栄光をまったく求めなかったことは、ヨシュアに対する彼の対応からわかります。モーセのためを思ってねたみを起こしたヨシュアに、モーセは言いました。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。」(民数記11:29)。ミリヤムとアロンがモーセを非難した時、モーセは黙っていました(民数記12章)。このことも小羊の精神を示します。

 モーセはイスラエルのためにあらゆることをしました。それにもかかわらず、モーセの恐れていたことが起こりました。イスラエルが良き地の手前で荒野に引き返してしまったのです。私たちはこの時のモーセの苦しみについて何も知らされていません。モーセがイスラエルと一緒にいたのに、ある人々は別の指導者を立ててエジプトに戻ろうとしました。その時、神はふたたび民を打ち、モーセを選びの民の始祖にすることを提案されました。もしモーセが神の提案を受け入れていたら、彼はその後、強情な国民を背負ってうんざりするような年月を過ごす必要はなかったでしょう。しかし、ふたたびモーセは自分の益をまったく顧みずに、イスラエルと運命を共にすることを選びました。

 イスラエルは約四十年間荒野をさまよいました。多くの試みを経た指導者も彼らに同行しました。その期間の終わり頃、モーセにとって状況はさらに悪くなりました。それはイスラエルのためでした。広大で恐ろしい荒野と、民の絶え間ないつぶやきと不信仰にうんざりして、モーセは軽率な言葉を口にしてしまいました。神は「岩に命じよ」と言われました。しかし、モーセは心の苦々しさから、神と共に静かに歩むことをうっかり忘れてしまいました。彼は岩を二度打ち、こうして神に従うことに失敗しました。神は、モーセの不従順を一つも見過ごすことができませんでした。なぜなら、モーセは民の前で義を象徴していたからです。モーセであろうとイスラエルであろうと、罪は裁かれなければなりません。モーセは「顔と顔を合わせて」神を知る特権を持っていましたが、特権が大きければ大きいほど、不信の罪は重くなります。主はモーセに判決を下して言われました、「あなたはわたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかった。それゆえあなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかに眺めることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」(申命記32:51-52)。

 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」(ローマ11:22)。高ぶった思いを抱かずに、むしろ恐れましょう。

 ふたたびモーセは山(ピスガ山)に登り、そこで約束の地を見渡しました。彼はそこで死に、神ご自身によって葬られました。モーセが死んだ時は百二十歳でしたが、彼の目はかすまず、気力も衰えていませんでした。荒野での苦難と悲しみの年月にもかかわらず、モーセが消耗しなかったのは、神が彼の力だったからです






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年12月07日 08時08分24秒
コメント(0) | コメントを書く
[ジェシー・ペン-ルイス] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

candy♪1026

candy♪1026

カレンダー

お気に入りブログ

ベートーヴェンの交… New! やまひで0207さん

☆Walking in Jesus☆ みのみの☆さん
難病ALS患者に愛… makiboさん
The God of love and… megumi☆9934さん
salaの軌跡 sala^-^さん

コメント新着

人間辛抱@ Re:オークション(06/26) ダイエットさんへ 新型コロナウイルス感染…
ポケ仙人@ Re:事実と真実(11/24) 昔の記事に反応。 プログで「事実であるが…
candy@ Re:---(06/26) -to8さん >------------- >--- -----…
-to8@ --- ------------- ---
-to8@ ----- -------------------------- --------

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X