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「すると、見よ、〔数人の〕男たちが一人の中風を患っている者を寝台にのせて 運んで来るのであった。そして彼らは〔何とかして〕彼を中に運び込んで[彼を]イエスの面前に置こうとした。 そして彼らは、群衆のために、病人を運び込むすべが 見つからなかったので、屋上にのぼり、瓦〔を剥いでそ〕の間から病人を小寝台と共に、〔群衆の〕只中へ、イエスの真ん前へと吊りおろした。」 ルカ5:18、19 (岩波訳)
この箇所は、中風に苦しむ友を4人がかりで、イエスのところへ連れていった話である。 他人の家の屋根をはがし、イエスの目の前に吊り降ろす大胆な行動から、イエスは彼らの奥底にある信仰を見・・・、 「人よ、あなたの罪は、あなたには〔もう〕赦されている」。 と語られ、そして・・・ 「私はあなたに言う、起きなさい、そしてあなたの小寝台を担いであなたの家に戻りなさい」。 すると彼は、たちどころに彼らの面前で立ち上がり、自分が寝ていた台を担いで、神を賛美しながら自分の家に去って行った」 (同5:24,25)
友のために取った行動に驚かされるのだが、よくよく考えてみれば決して美しい話ではない。 同じことが今目の前で起こったとしたならどうだろう。 多くの人をかき分けてまで,それはある意味,順番を無視したような形でもある。押しのける群衆を割ってはいることすら、他の人を省みない身勝手な行動ではないだろうか。 イエス様に癒していただこうとする人は他にも大勢いたに違いない。そういう人たちを割ってはいるというのは、ある意味、他の人から見れば、「ムカつく」存在。 スーパーのレジで長蛇の列の中に、ずうずうしく割って入ろうものなら、主婦の怒りは物凄いものがある。ひしめく群集をかき分け,自分たちだけが前に出るのだから、いくら友達のためとはいえ、他の人のことを全くといっていいほど省みていない。まして他人の家の屋根まではがしているのだ。これが自分の家だったら・・やはりその図々しさだけが人の目にうつっていたに違いないと思う。今の日本にしてみたら、器物破損、住居侵入罪・・立派な犯罪だ。図々しく割って入り、他人の家まで壊す、そんなことをしている人を見たら、 非難こそすれ、素晴らしい信仰だ!・・などと決して思うことはまず、ない。 他の人のことなど見えないほどに友だちを思っているといえば、美しく聞こえる。やはり周りから見えれば、彼らの図々しさ、自己中さは、他の人の反感を買ったにちがいないのである。 彼らは私たちとなんら変わらない罪を持った人間である。 でもイエスはこの人たちの自己中心的で恥知らずな、他人の迷惑を顧みない、今で言えば立派な犯罪・・である行動に対し、その罪を問うどころか、 彼らの信仰と捉えて下さった・・ここに驚かされるのです。 ただイエスに、イエスのもとに・・・ それだけが彼らの思いだったに違いありません。 他の人さえ見えないほどに、一心にイエスに向かっていた・・それだけをイエスがご覧になられたのです。 「あなたの罪は、あなたには〔もう〕赦されている」 なんと言うお言葉でしょう。 彼らはイエスにただ向かって駆け寄ったに過ぎないのです。それ以外、何のよいものはありませんでした。 ただイエスに向かって一心に駆け寄る・・・ それだけでいいのだと思わされます。
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