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今年一年、いろいろなことがあった年だった ある意味とても長い一年のように感じたのかもしれない。 主人の移植や母の死、そのほか書ききれない多くのこと・・振り返って思うことは、すべて主がそこにいてくださったことだ。 とりなしてくださる祈りと、主がいてくださるのでなければ耐えることもできなかったと強く感じる。 でも、通ってきた苦しみよりも、それを通して与えられた恵みの方がはるかに大きいことを感じる。 主がなして下さったことや、慰めと恵みは私の思いをはるかに超えていた。 その中の大きな示しは、「死」に対する勝利を深く感じさせられたことだった。 葬儀の間中、母の死は悲しむものではなく、むしろ主にあってともにあるいのちとしての確信へ、より近い存在として新しい命の中へ移された喜び、完全な癒しへの成就として深い休みに入ったという深い平安、本当に感謝な思いに満たされ、母の死を通し不思議な感覚がおおっていた。 葬儀の最中、礼拝を捧げているという静かな喜びが溢れていたことは、主がすべてのすべてとなってくださることの恵みを知る出来事となった。長年の間、精神を病み苦しみ続けてきた母は死を通して、わたしの心に実をもたらしてくれたかのようだった。
死が多くのクリスチャンにとってでさえ、あまりにも大きな悲しみ、絶望となって思いにのしかかる現実を目のあたりにしながらも、その絶望の中に輝く光が確かにあるという福音です。 死の真っ只中で働くいのちこそ、私たちの内に与えられたいのち。 十字架を通し、死はすでに棘を抜かれたものに過ぎず、死に対する勝利はすでに、完全に勝ち取られているのです。完全にです。 その勝利によって主が得てくださった戦利品は私たちが味わうものとして備えてくださっているとは、ただただ驚きに包まれます。 「わたしを信じるものはたとい死んでも生きる」と語られたイエスの御言葉は真実であり、
と語られたパウロの言葉も真実です。 またイエスは「わたしが去っていくことは益だ」とおっしゃいました。 これは聖霊がこられることを意味する・・言葉だけではありません。 イエスの後に続く彼の兄弟たち(神の子供たち)の死に対しても同じであり、むしろキリストのあって死ぬことは、実を結び続け、豊かに、たわわに実り続けるのです。 そして、去っていくことは、キリストのみ体にしっかりと組み合わされたいのちとしてイエスとともにあり、私たちもその中にあるのですから、より近くに、よりそばに、いのちの中にあることをどうして否定できるでしょうか。もはや死によって分かたれることから完全に自由を得たのです。 それはこのように書いてあることから明らかです。 もはや死は、私たちを引き離すものではなく、むしろキリストの中にあるいのちとして、キリストとともにあり、私たちとともにある確かないのち、 去っていくことが益・・という御言葉を味わい、私たちの涙は完全にぬぐわれ、静かな喜びがそこに満ちていることを知るでしょう。 「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」 愛する主は、この御言葉をわたしたちが死んでから?味わうようにされたのではありません。 イエスの内に生きるということが、この御言葉をの前味を味わうことであるのです。死のただ中にあって、悲しみのただ中にあって、イエスがともに居られることがすでに天の前味であり、主は真理によって私たちの涙を一瞬のうちにぬぐってくださることを経験する人は幸いです。 たとい愛する人が召され、もう会えないと思っても、それは主のみ前では一瞬の別れに過ぎず、極端に言えば、明日また会えるのです。 むしろ主にあって召された霊が、悲しむことのないようにとどれだけ願っていることでしょう。 「主とともに生きている」とどれほど伝えたいと願っていることでしょう。しかし、主はそれを奇跡のように人の目に示されることは望まれず、信じることを通して知ることを主は願われておられます。「あなたは見たから信じたのですか?見ずに信じるものは幸いです」といわれている通りです。 死という扉の向こうにある確かないのちは、日々十字架を経、いのちの復活の中に移される小さな経験の連続は、永遠へと繋がっており、やがて起こる肉体の死へ、そして復活のいのちが確かに起こる出来事として現されるのです。 福音の持つ恵みはどれほどに大きなものでしょうか。 その深さ、高さ、広さ、大きさをさらにさらに知りたいと思わされます。
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最終更新日
2008年12月25日 09時37分23秒
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