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昨日のテレビで、ガンと戦った少女の話が放映されていた。壮絶な治療の後の定期健診のたびに逃れられない再発への恐れに苦しむ家族の話が報じられていた。幸い再発することなく、大人へと成長し、結婚、出産することができた でも、定期健診のたびに不安と安堵の気持ちに揺れ動く家族の思いを見、そのような恐れというものからまったく守られている自分がいる事にふと気が付いた。 確かに、主人のガンが再発する・・しない・・という思いがないわけではない。 しかし、そのことに対して心が奪われて、定期健診の度にジェットコースターのように気分が揺れ動くということから守られていることにあらためて主の愛を感じた。 再発は全くしないとか、するかもしれないとか、そこに望みがあるのではなく、キリストこそが希望。心の安定も状況にあるのではなく、お方にあるということの幸いを深く感じさせられる。 「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・だからあすのための心配は無用です。・・・」(マタイ6章) マタイ福音書5~7章の中で語られたイエスの御言葉は、祝福に満ちている。 以前は心配するなと言われたら、自分で心配しないように努めたことがあった。 主は心配しないように努めなさいとは言われていない。「心配は無用です。」といわれているのだ。 御言葉を、文字通り受け取ること、そう、受け取ることなのだ。 主が無用と言われたら、無用であり、これにいったい何を付け加え、これをどう考えるというのか。 すでに死んでいるのだから(キリストとともに死んだ者)腐った頭を通さず、ストレートに御言葉を受け取ること。
それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。 」 第一テサロニケ2:13
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