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「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30) 「頭を垂れて」という言葉は、「横になって休む」という意味の言葉が使われているそうです。「人の子には枕するところがない」とイエス様が仰いましたが、ここで出てくる「枕する」という言葉とまったく同じ言葉なのです。 十字架の死をお受けになった瞬間、イエス様はやっと安息を得られた。ゆえに、ここにキリストとと共に十字架につけられた者の希望を見るのです。真の安息は、十字架の内に隠されているのであり、十字架を負う者のみが、キリストの安息の内に枕する恵みに与ります。 なぜなら、「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば」(ローマ6:8)キリストが休まれたその安息にともに与るのです。 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27) と主はお語りになられました。世が与えるのとは違う平安・・このことを思うとき、これは、十字架の内に隠された神の安息であり、 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負、」(マタイ16:24)う者は、キリストとともに安らぐ恵みを知るのです。 「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(第一コリント2:2)パウロ。それはむしろ、十字架につけられた方を知ることは、すべてのことを知ることである。そう思わされています。
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