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「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリアの全土および、地の果てにまで、わたしの証人となります。」 使徒1:8
「あなた方は力を受けます」という箇所を見て、何度もその言葉から、力強い者、力に溢れた者・・何か神がかりてきな?力、奇跡的な力を私たちが持つようになって、私たちが強くなることだと誤解し、間違ったイメージで読み、求めていないだろうか? まるで聖霊を求めるのは,弱い自分との決別?かのよう・・な求め方であり、その根底にはしっかりと自己中心が横たわっているのです。 しかし、バプテスマの本質は「神の力に覆われる」ということ。 神の力が覆うということを思うとき、他の聖書の箇所を思い起こす。 覆われるというのは、私たちがいかに弱く、欠けに満ちており、罪深いものであったとしても、そっくりそのまま神の大いなる力の中に置かれたということ。 それが力を受けて生きるということであり、決して私たちが強くなることではない。むしろバプテスマのヨハネの告白、「あの方は盛んになり、私は衰える」といわれた言葉を思い起こすのです。 神の力に覆われて、私たちの弱さ、欠けの中に、完全に、そして、実に不思議な形でイエスのいのちが現れてくる、その実体験の真っ只中でイエスを食べ、味わい、知る。その中ではぐくまれてくる主への深い信頼感、安心、どっぷりとイエスのいのちを味わう喜びの中に座り、弱さの中に働く神の力の確かな証人として、あらゆる場に遣わされていくことなのだと思わされるのです。
「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。 」 これはパウロの言葉、彼が弱さの内に出て行ったことを深く思うのです。 それは、 「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。
「あなた方は力を受けます。」・・弱さの中で、キリストのいのちに覆われ、弱さの中に完全に現されるキリストの力の証人として遣わされる、すべては主がなさることを驚きをもって証する恵み・・・キリストのいのちが現されるために、喜んで弱さを誇りましょう!ハレルヤ!
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