カテゴリ:ブラザー・ローレンス
「第十一の書簡」 私はその悩みや苦しみから救い出されるようにとは願いませんが、ただ神が良いと思われるまでの間、忍耐を与え、強めてくださるように切に神に祈らせていただきます。十字架にしっかりと結び付けてくださる主によって、あなたが慰められるように願います。神が最も良いとされる時に、あなたをその所から解放してくださるのです。主のために苦しむものは幸いです。そのようにあなたも苦しみや悩みに慣れるようにしてください。主が許されるすべての苦しみに耐える力を求めて、あなたにとって十分だと思われる主の時まで祈り求めてください。この世に人々にはこのような真理は理解できません。これは決して不思議なことではありません。彼らはこの世を愛するものとして苦しむだけで、キリストを愛する者として苦しむのではありません。彼らは病気を自然界の苦しみと見なすのみで、神の恵みの現われとしては受け取りません。そのために病気は、自然界における不利な状況や苦痛であるとしかとらえることができません。しかし、病気は神の御手から神の憐れみの結果として、また私たちに救いを与えてくださる手段として来るものであると考える者にとっては、病の中にも大きな喜びと真実との慰めを見出すことができるのです。 私たちは全く健康そのものでいるときよりも、病気と弱さの中にあるときのほうが、かえって神が近くにおられると感じられることを、信じていただきたいと思います。私の理解する限りでは、神以外のどんな薬も不要であり、神ご自身が私たちの癒しに心を留めておられます。ですから全く神に信頼をおいてください。神は速やかにその回復をあらわしてくださいます。神よりも医療に大きな期待と信頼をおく事によって、かえって、回復を遅らせる場合がよくあります。 あなたがどんな治療を用いる時にも、それは神の許される範囲においてだけ有効であるのだとしるべきです。神よりくる痛みは、また、神だけが癒すことができるのです。神はしばしば肉体に病気を与えられることにより、私たちの魂を癒されることがあります。ですから、あなたの霊も肉体もそれらを支配しておられる癒し主に頼ってこそ、あなた自身に慰めがあるのです。 あなたはきっと、私が主の食卓に与っているので、とても安らかなのだと答えられるような気がします。そのとおりです。でも考えてみてください。もしも、この世界で最大の犯罪人が赦免を保証されないままで、王の食卓に着き、王の給仕を受けたとしても、苦しみは減るでしょうか。彼は最大の悲嘆にくれるほかなく、その悲痛は、神の善意に拠り頼むことによってはじめて和らぐものです。また、いかに私が王の食卓でご馳走を頂く幸いに与ったとしても、私の罪がいつまでも私の目の前にあって赦しも受けられないままであったなら、私は苦痛にさいなまれます。といいましても、本当は、このような苦しみさえ私にとっては喜びです。 神が置いてくださっている状態に満足してください。あなたは私をどんなにか幸福だろうと思われるでしょうが、かえってわたしはあなたをうらやましく思います。神と共に苦しみを味わうのでしたら、痛みも苦しみもわたしにとってはパラダイスとなるはずだからです。神から離れているのでしたら、私の持つ最高の快楽も地獄となるのです。私のすべての楽しみとは、ただ主のために何か苦しみを味わうことなのです。 私はまもなく神のみもとにいかなければなりません。たった一瞬たりとも神を見ることができたら、どんな激しい苦しみも、それが世の終りまで続くとしても、私にとっては喜びであることを、神のみ前に申し上げるつもりでいます。私の生涯で何が私を慰めるかといえば、それは信仰の目で神を見ることです。もはや信じるということより、神を見ているとさえいえるような思いで神を仰ぎ見るのです。信仰が教えることと信仰の実践と確証を、私は実感として学び取り、神と共に生き、神と共に死ぬ者となるのです。 ですから、いつも神をかたく信じ続けてください。これこそあなたの病める日々のただ一つの慰めであります。私は神があなたと共にいつもおられるようにひたすら願うものです。」
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