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「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。 」 ヨハネ16:7
イエスの死への準備が私たちに希望に満ちた模範を提供してくれている。 いのちの内を歩むということは、イエスご自身を追体験してゆく道。そしてやがてこの体が朽ち、召されるその時も、やはりイエスのように死ぬという栄光に与る恵みが備えられていることを確信するものです。 この世にあって、イエスのように生き、イエスのように死に、イエスのように復活する私たちキリスト者の人生、たえず十字架と復活の中へと導かれているお方が、わたしたちがこの地上での命の終りを迎えるとき、イエスご自身が去っていかれることによってもたらされた益の中へ、どうして導いてくださらないといえましょう。 私たちの死が、残された方々へ最大の贈り物として、愛の霊、神の霊を送るという主の御業に与らせてくださる。死は信じる者にとって永遠の実りがあること、これは十字架と復活の生涯を歩む者はすでに味わっている真実です。 死は勝利に飲まれ、その棘すら抜かれています。 主が十字架で勝ち取られた勝利は、私たちのこの体の終りという死、この地を去っていくことを通して流れ出すいのち、イエスの霊が与えられているのです! なんという希望でしょう! 「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」 コリント第二、4:12 死が私たちの体に働き、その死を通っていく時、いのちが他の人々にもたらされてゆくことを信じることが出来る。主は死を最大の希望へと変えてくださった。なんという神秘、そして、なんという奥義でしょう。 召されようとしているとき、この真実に目を向け、信じることを通して溢れ出る平安は、注ぎだされたいのちとして、他の人々の内に働くのです。 残されている時間の中で、もはや何もできないという状態の時に、何が出来るかではなく、その無力さの中に備えられた実りがあり、 そして死は私たちにとって終りではなく、イエスの最大の御業に与る歓喜の時であるのです。 この究極の実りを、わたしたちは信じるでしょうか。 すべてはただ、ただ信じることによって、主のみ業に与るのです。
ピリピ1:20~23
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