カテゴリ:カテゴリ未分類
母の日の礼拝 母をお与え下さった主を褒め称えずにはおられない思いに満ちていた。 私はアッセンブリー教団に席を置いているのだが、アッセンブリーの月刊誌の 母の日特集に証の記事を載せていただいた。 母が亡くなってからちょうど一年がたった頃、こうして文章にすることで、あらためて主の恵みを思い返して感謝が溢れる。 限りある字数の中で書いた証、荒削りの文章を祈りつつ何度も読み返し、編集してくださった教会の牧師夫人にあらためて感謝いたします。 お祈りくださった方々に感謝を込めてこちらのブログでも、同じ文章を書き記します。
「母の死を通して」
「わたしの母は長い間、精神を患っていた。その事で私と家族は苦しみ多くの涙を流した。 しかし、それで私自身の内に真理を求める土壌が備わり、弱さの内にイエス・キリストを私の救い主と信じることが出来た。その母が昨年、夕食を気管に詰まらせ病院に救急搬送されたが、すでに心肺停止、そして脳死と断定されて回復の見込みは絶たれた。 同時期、夫は悪性リンパ腫の移植治療中で、この試練にひたすら主の御名を呼び続けた。 私は現在、腎不全の為、人工透析の生活を送っている。母の脳死で、突如、腎臓移植の話が起こり、父は妻の命が娘の体で生きてくれるのではと移植を熱望した。ところが法律では、家族間では生体腎移植以外、認められておらず、父の願いは絶たれた。 このとき、私の内で肉親の父の思いと、天の御父の思いとが重なった。 十字架上で御子の命が失われることを通し、わたしの内に御子の命が移され私は生かされたのだ。神の深い愛と、イエスの十字架の意味が激しく迫って心が震えた。 母は静かに逝った。私の心は「死は勝利に呑まれた」の御言葉によって、死は別離や悲しみで終わるのではなく、もはや引き離される子とのないキリストの愛の中で一つとされたのだと確信と平安に満たされた。 「たとい死んでも生きる」 また、夫は末期がんから完全に癒され死の淵から生還した 「悲しみに悲しみがかさならないようにしてくださいました」(ピリピ2:27) 今、娘も主イエスを信じ救われ神の家族とされ同じ信仰の道を歩んでいる。 この十字架の愛、主の素晴らしき恵みを伝えずにはおられない。」
実家の父にこの証のコピーを手渡した。紫色のカーネーションとともに。 主がともにいてくださいますように・・。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|