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「狭い」と訳される言葉、本来は「うめく」という意味があるのです。 狭いという言葉が、何か窮屈なものであるかのように、それはあたかも、らくだが針の穴を通るかのように捉えてきたのではないでしょうか。 イエスが「狭い門から入りなさい」と言う時、それは、そうした「うめきの入口から入りなさい」と告げているのです うめきの先に繋がっているもの、それは十字架です。 いのちに至る門は・・と続いています。 まさにイエスとともに十字架に継ぎ合わされ死にくだり、イエスとともによみがえりのいのちへ至るのです。 もちろん、誰も好き好んで「うめき」を望む人はいません。 しかし望んでいなくても、人は試練に立たされます。起こってくるあらゆる苦難の時に、このイエスの「うめきの入り口から入っていきなさい」という招きを、聞く耳のある人は聞くべきです。 うめき・・それはあたかもうずくまって、自分を救う手立てさえもなく、ただ主を待ち望む他、何もない・・ まさにうめきこそ、十字架へ下る道です。 イエスのうめきの最大の言葉、 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 神にさえ見捨てられたと感じるほどのうめきの中にイエスご自身が、はじめに入ってゆかれました。信じる者たちがキリストとともにその入り口を通っていのちへと至るように・・です。 いのちの門・・門ですから開かれる必要があったのです。十字架の購いを通してその門は開かれました。イエスご自身がいのちにいたる門となられたのです。信じる者たちが、同じ十字架のうめきを通っていのちに至るようにと、まさに門、そして道となってくださったのです。 しかし、多くの人はこのうめきの入り口から入るより、違う道を模索するのです。 自分を救おうと、「もがき」の道を選んでしまうのです。手放すというより、必死で自ら命を得ようとするのです。 ゆえにイエスはおっしゃいました。 「それを見出す者はまれです。」と。 苦しみの中に置かれたとき、私たちはイエスがどのように十字架に向かわれたかを見つめてください。 イザヤ書53章にはその十字架に向かわれるイエスの姿が書かれてあります。 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれてゆく子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼の口は開かない。」 すべてのことをおできになる方が、一切を手放しそこに留まったのです。自らを救おうというもがきすらありません。 十字架という試練の前に、何かこうすればいいなどという策はあったでしょうか。 いえ、ほふり場に引かれてゆく子羊のように、全くの弱さの中に留まられたのです。 そこには、自分からのもの(熱心も、情熱すらも、抵抗すらも、もっといえば、考えるということすら)など何もありません。一切を 「死に明け渡し・・」たのです。 がゆえに、神はキリストを死者の中からよみがえらせ、すべての名に勝る名をお与えになったのです。 「狭い門からはいりなさい」という御言葉はクリスチャンに語られているということを知ってください。 主がすべてを導かれるのに委ねて、弱さの中に留まる人は幸いです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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