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イエスの喜びと満足のために☆

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2009年05月28日
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 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

       ヨハネによる福音書2章23~25

 

  多くの人がイエスのなさった奇跡、しるしを見てイエスを信じたと言う。

 しかしイエスご自身は彼らを信用されなかった。他の聖書では「任せることはしなかった」と書かれてあった。それはすべての人のことを知っておられた・・からとある。

人のうちをすべてご存知で、人間の側から出たもの、それらはなんの役に立たないものであることも知っていてくださっている。

 「ピスチューオー」というギリシャ語で、「信頼する」とか「言葉を本気で受け取る」とか「自分自身をゆだねる」だそうです。

 イエスさまのなさったしるしを見て多くの人がイエスさまを信じた・・が、主は、イエスを信じたというその人々の言葉を「本気で受け取らなかった」、あるいは「ご自分をゆだねなかった」という意味になります。

 

 多くの教会で、イエスのことを聞き、イエスを信じた人々たくさんいます。

 イエスのなさったしるしを見、またその証に触れ、確かにイエスを信じたのかもしれません。

 信じたという証に、教団の信者になり、会員証を持ち、奉仕をし、礼拝出席や献金もしている。ひょっとしたら、教会という場所で、あなたは申し分のない信者、模範のような信者なのかもしれません。

しかし、どうでしょう。イエスご自身が、本気でその信仰を受け取ってくださっているでしょうか。いえ、もっと言うなら、イエスご自身がご自身をあなたのうちにゆだねてくださっていることを味わっているでしょうか。

このようなことを言うと、不安になる人、あるいは怒り出す人がいますが、信仰による救いを否定しているのではありません。今日の箇所は、人のうちにあるものゆえに、イエスご自身が本気で受け取らなかった、ゆだねられなかった・・ということはどういうことかということです。

 まず、イエスが本気で受け止めてくださるようなものは、人のうちには何一つないということを知らなければなりません。

 イエスの弟子、ペテロの告白を思い起こしてください。

 「たとい全部のものがつまずいても、私はつまずきません」

 また他の箇所では、「あなたのためにはいのちも捨てます」

彼は本気でイエスに告白したのかもしれませんが、

 しかし、イエスご自身は、ペテロの内にあるものをご存知で彼の告白を信用されなかった、本気で受け取らなかったのです。

 「わたしのためにいのちをも捨てると言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」

 わたしたちの内には、いえ、肉のうちには何一つ、イエスが本気で受け止めてくれるような信仰は存在しません。

 肉の努力、肉の決心はなんら役に立たないのです。

 ペテロは主がおっしゃったとおり、主を否定してしまいました。彼は主のお言葉を思いだして、外に出て激しく泣いた。ことが書かれてあります。

 このことを通してペテロ自身、「人のうちにあるもの」を深く知ったのではないでしょうか。

 復活の主が「あなたはわたしを愛しますか?」とペテロに問われ、その言葉の応答には、もはやかつてのような自信たっぷりな表現はまったく見られませんでした。

「主よ、あなたは一切のことをご存知です。あなたは私があなたを愛することを知っておいでになります。」

 主は私のうちにあるものすべてご存知であること、そして、私が主を愛するかどうかさえもすべて、ご存知であることも・・。

 すべてを捨ててキリストに従って弟子となったペテロにとって「人のうちにあるもの」すなわち、自分の内にあるものを知るということはとてもつらいことだったに違いありません。もう自分にはイエスに従ってついてゆく・・などと言う事すら資格もないものとさえ思ったことでしょう。自分ではどうしようもない、自分の信仰など、死んだも同然のようになったことでしょう。しかしそれこそが、ペテロには必要なことだったのです。

 キリストとともに十字架につけられ、ともに死に渡される経験へと導かれることを通して、はじめて私のうちに生きられるキリストを知るのです。ペテロ自身の自前の信仰から、御子の信仰への転機の鍵、それが十字架でした。

 キリストはわたしたちの罪の代わりに死んでくださった。私たちの罪は赦され、神の子供になりました。しかし多くの人々にとって十字架のメッセージはこれ以上の意味を持っていないのです。

ですからこのことを一生懸命に信じて、・・という自前の信仰にとどまったままです。自前の信仰によって力強く証をし、自前の信仰によって奉仕をし、自前ですから回りに認められることがどんなにうれしく思うでしょう。信仰が強いと言われれば、なお、うれしくなります。自前のものをほめられているのですから。また認めない人々に対しては反感を覚えることでしょう。あ・な・た・の・も・のを否定されていると思うから当然です。

 多くの教師と言われる人々さえも、なんとこの自前の信仰の中に生きていることでしょう。

  「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです(原語=神の御子・の・信仰によって)」

              ガラテヤ2:20

 御子が本気でご自身をゆだねることができるとは、十字架の死をとおして「人のうちにあるもの」を知り、自らの内には何もよきものが存在しないという貧しさ、空であることを深く知る時、初めて溢れるほどにご自身をゆだねてくださるのです。

 私の内に生きるキリスト、ご自身を私のような無価値な者にゆだねてくださったキリストに触れる感動がそこに溢れているのです。






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最終更新日  2009年05月29日 15時06分17秒
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