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神の内なる幸福な生活の秘密と実在は、それを受け、生き、経験しなければ理解することはできない。 知性だけによってそれを理解使用とすれば無駄な努力だとわかるだろう。 ある科学者は、手の中に一羽の鳥を持っていた。彼は鳥に生命があることを知り、鳥の体のどこに生命があるのか、また生命とは何であるのか知りたくなり、その鳥を解剖し始めた。その結果、彼が探していた生命そのものが不思議なことに消え去ってしまった。 内なる生活をただ知性によってのみ、理解しようとする人々は、これと同じような失敗をするだろう。彼らが探している生命そのものが、分析によって消滅するにちがいない。 サンダーシング 。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚
生命を知るために、鳥を解剖してしまっては何もならないことぐらい誰だってわかること。 でも、実際、これと同じことをして、神の奥義なるいのちを知ろうとする人はとても多い。 そしてそれがおろかな行為であるとさえ、気づかない。 それほどに、私たちは何もできない、知ることにおいてでさえも、無力なのである。 無力さにおいてでさえ、私たちは自分が本当に無力であるということすら、知らない者であることをご存知でしょうか。神を見失った人間にとって、神を見失ったということは、自分自身の本来の姿をも見失っているといえるのです。 自分の姿すらわかっていない私たちを忍耐を持って主は導かれますが、いつまでもそのままではありません。ある時 神は私たちが自らの姿を知るべく鏡へと連れ出されます。 それこそが十字架なのです。 あらゆる状況を用いて、徹底的な十字架の死の中におかれます。 キリストご自身が私たちをまさに墓の中から引き上げてくださるのをひたすら待ち望むしかないという経験にまで導かれる人は幸いです。そこでこそ、私たちは自らの貧しさを知り、主イエスなしに生きることができないものであることを本当の意味で知るのです。 十字架は私たちを死に追いやりますが、神の御言葉は時満ちて、私たちを死者の中から引き上げ、「たとい死んでも生きる」真の生へと復活させるのです。 主の御顔を拝し、尽きない喜びと安息、そこから広がってくるいのちの壮大さ、内なる生活の奥義を知り、ただ主だけでこれを導いてくださったことを知るのです。 そこには私たちの側のものなど何もありません。 「貧しい人は幸いです」と主は言われましたが、 「天の御国はその人のものだからです。」と語られた意味がもはや自らの霊の前に広がっていることを知り、驚きに包まれます。 主だけで導いてくださったことを深い喜びをもって味わう歩みがそこから広がっていることを知るのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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