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「 盗人が来るのは、盗んだり、ほふったり、滅ぼしたりするためにほかならない。 わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 ヨハネ10:10
主がこの地上に来られたこと、それはまさに羊がいのちを受けるため しかし、多くの人々は、いのちを受けたものの、豊かに受けるという主のお言葉を知らないでいます。 この御言葉を思い巡らしていたら、黙示録3章の言葉に導かれました。 「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる」という言葉です。 生きている、すなわち、主の救いを得、生命は受けているけれど、死んでいるとおっしゃったのです。 いのちを得たのに、死んでいるとはいったいどういうことなのでしょう。 そこにこそ、今日の御言葉、いのちを豊かに受けることの中にその答えを見出すのです。 わたしたちが主の面前で、「あなたに生命を与えたのに、あなたは死んでいた」といわれたとしたら、なんと悲しむべきことでしょう。 主は信じる者たちにいのちを得、しかも、と続けられているのです。 それこそが、豊かな生命を与えるため、であるのです。 豊かな生命はどのようにして得ることが得きるのでしょう。 その方法は、というと、・・・・私たちには何一つありません。 豊かな生命は与えられるいのちであり、恵みによって与えられるものだからです。 豊かな生命への入り口が、十字架なのです。 十字架を通ることなしに、豊かな生命へと移されることはありません。 イエスが十字架にかけられる前、彼の周りにいた人々全てが、ちりちりに去っていきました。 十字架はまさに痛みと苦痛そのものであり、神に見捨てられる場所、死をあらわしているからです。 十字架は、何の抵抗すらできない場所です。 今まで持っていたもの、よきものさえ全て、死に渡される場所です。 ところが、神は、この十字架によっていのちに至る道を開かれました。 信じるものがそれによっていのちを得るように定められたのです。 しかし、さらに、豊かにいのちを得るために、わたしたちは主によって十字架に導かれなければなりません。 「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです。今私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 ガラテヤ2:20 十字架を通して救いが来たように、十字架を通して、豊かな生命に入るのです。 「 キリストとともに十字架につけられました。」という言葉が、パウロにとってはただ信じるべく言葉、標語ではなく、その十字架経験へと導かれ、まさにキリストとともに十字架につけられる場へと引き寄せられたことによるものだからです。 彼の人生すべてが、キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに死に継ぎ合わされたゆえに、はっきりと、もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる!と彼は証したのです。 キリストが私のうちに豊かに生きる力、豊かな喜び、豊かにどこまでも広がる尽きることのない平安をです! 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」 十字架の向こうに広がる豊かな復活の生命の中へ、私たち一人一人、招かれているのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得 しかも、豊かに受けるためである」
主ご自身が、求めるもの一人一人 十字架へと引き寄せてくださいますように。
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