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「彼は自らの前に置かれた喜びのゆえに、恥をものともせず、十字架に耐えた。」 へブル12:2
なんという言葉だろうと思った。 あの恥と痛みに満ちた十字架を耐えたその理由が、書かれてあるのだ。 それは「自らの前に置かれた喜びのゆえに」であり、 さらに、より言葉通りだと、「喜びという代償があったので」 十字架を耐えられたのである。 あの「自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」〔イザヤ53:11)という言葉と重なった。 激しい苦しみをも超えるほどの喜びが彼の前に置かれていた。 イエスが時満ちて十字架の死を味わわれたように、私たちの人生の中にも、時満ちて、十字架の経験の中に引き寄せられます。しかし、 それ以上の喜びがイエスの前に置かれていたのと同様に、私たちの前にも置かれているという真理です。 誰も好き好んで辛い十字架に、死に追いやられる十字架につけてほしいとは思うことなどできません。 しかし、それに勝る喜びが、その代償としておかれているという真実! 十字架の死の向こう、それはよみがえりのいのちでした。 復活のいのちとは何でしょう。神の子のいのちを内に宿すことであり、そのいのちによって生きることです。しかしもっと言うならば、復活のいのちの中に神の御心が成し遂げられるいのちの特徴が備えられていると言えます。 いのちの特徴であり、本来の神の御心、創世記にそのいのちの祝福を見ます。 「生めよ、ふえよ、地を満たせ。地を従えよ・・・」 です。 それは教理として知っているかということではなく、このイエスのよみがえりのいのちの実際へと導かれた者から、このいのちの増殖の祝福、喜びの中の喜びが同じように私たちの前に置かれるという真理です。 イエスのいのちが、私たちの内に生きている、その復活のいのちが新たな子孫、蘇りのいのちの中に生きる者を生んでいくその業〔その全ては神がなさる〕私たちはキリストにあって、ともに見るのです! イエスを信じて人が救われることが奇跡だといいます。確かに。 しかし、さらに奇跡の中の奇跡は、このイエスの十字架の死とともに継ぎ合わされ、一切が焼き尽くされる経験の中に、その実際の中に置かれ、豊かないのちへと移された喜びを知って、そのいのちを味わっている、死と復活のイエスの証人とされることです。 そして日々イエスの死をこの身に帯び、日々、いのちへと移されるいのちの歩みをするものに、与えられた祝福、 復活のいのちの証人なる子孫たちの増殖を見るイエスの喜びに与る恵みが私たちの前に置かれているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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