このようにして、あなたがたもまた、一方で自分たちが罪に対して死んだ者[であるということ]、他方でキリスト・イエスにおいて神に対して生きる者[であるということ]を認めなさい
ローマ6:11
思いなさい。認めなさい。どうして、こう言われているのでしょうか。もうすでに私たちがイエス様とともに死んでしまったから、認めるべきであるということです。
もしあなたが五万円を持っておられるとすると、金銭出納簿に何と書き入れるのでしょうか。もちろん五万円と書き入れるでしょう。事実、五万円を持っているから、そのように書き入れるのです。
この五万円を持っているという事実に基づいて、それから計算します。買い物に行っても、自分は五万円持っているということをいつも考慮にいれておきます。
同じように、主なる神は、私たちはもうすでに罪については死んだ者であると計算しなさいと言っておられます。それは事実ですからそうしなさいと仰るのです。これは主の命令です。
あなたは五万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪に通じて死んでいますから、そのように計算しなさい。
イエス様が亡くなられたとき、私たちもともに死にました。ですから、もうすでに罪について死んでしまっていることを計算し、信じ込まなければならない。
罪に対して死に、主なる神に対して生きているということを認めるにはどうしたらよいのでしょうか。私たちのうちにあってではなく、主イエス様によってのみ可能です。
イエス様を見上げ、イエス様の成し遂げたみわざを思い見ましょう。それが計算の秘訣です。もちろんこれは信仰の計算でなければならない。
ローマ人への手紙の前半は、多くが信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、主なる神との平和などはみんな信仰によって、主に頼ることによって自分のものとすることができます。
これに対して、ローマ人への手紙の後半は、信じなさいということより、計算しなさいということばが多く書かれています。けれど実際には信仰も計算も似ているものです。
信仰とはいったい何なのでしょうか。信仰とは主の成してくださったみわざを受け取ることです。信仰はいつも過去に行なわれた事実の上に立つものです。信仰の目的を考えますときに、未来をのぞき見ますが、たいていの場合は過去に行なわれた事実に基づいています。
ローマ人への手紙の後半に多く出て来る、計算するということは全部過去の事実に基づいています。ですから信じなさいということばではなく、計算しなさいということばを使っているのです。
またマルコの福音書の11章には、計算せよということばと同じ意味のことをイエス様が言われました。
「このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、〔もう〕受け取ったものと信じよ〔計算せよ〕。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。」
マルコ11:24
(あるメッセージより)
計算するということ、キリストにあって成し遂げられた御言葉、すでに受けたと計算し、その通りに思いの内に書き入れ、それに基づいて行動すること、これは大きいです。 キリストに目を注ぐ、この方の内にすべての宝が隠されている。これはあるかないかの曖昧なことではなく、たしかな事実、真実として見、計算せよ、と主が語られているのです。