山谷さんのブログより
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先日、温泉で次のような問答をした。備忘のため、以下に書き留めておこう。
某氏「キリスト者にとって、義認がすべて、という考え方がありますね」
小生「そうですね」
某氏「そうしますと、聖潔というのは、義認に付け足す感じになりませんか」
小生「なるほど」
某氏「義認は、それだけで完全なのに、なんで付け足す必要があるのか、と」
小生「義認は、たとえて言えば、プレゼントのようなものでしょう」
某氏「プレゼントですか」
小生「箱に入ったケーキのようなものですね」
某氏「ほう」
小生「プレゼントを受け取った人は、その時点で、すべてを受け取ったのです」
某氏「なるほど」
小生「しかし、包み紙を破り、箱を開け、ケーキを食べない限り、中味をあじわうことはできません」
某氏「すると、プレゼントが義認で、その中味をあじわうことが聖潔ですか」
小生「そう考えたら、どうでしょう」
某氏「そうしますと、義認の中に聖潔が含まれているわけですね」
小生「そうですね。義認が、キリスト者の経験の中に実体化されるのが、聖潔でしょう」
さて、上記の温泉問答の後、小生は、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験は、上記のたとえで言えば、どういうふうに位置づけられるのか、ということを、つらつら考えさせられた。
いまのところ、こう考えてみている。
すなわち、ケーキの上にのった苺が、それ、異言を伴う聖霊のバプテスマの体験である。苺がたくさんケーキの上にのっているに、しくはない。
しかし、ケーキの本質は、もとより苺の中には、ない。ケーキの本質は、本体にこそ、あるのだ。
なぜなら、もし、ケーキの本質が苺にあるとしたら、ショートケーキ以外のケーキは、もはやケーキでなくなってしまうからである。
問題は、われらの主は、あるキリスト者にショートケーキをプレゼントなさり、あるキリスト者にはチョコレートケーキをプレゼントなさるらしい、ということである。
さらにこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、チョコレートケーキですね。それはケーキとして二流です。あなたが主から愛されていない証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。
もっとこの問題をややこしくしているのは、あるキリスト者は、他のキリスト者を見て「あなたが主からもらったのは、ショートケーキですね。それはケーキとしては邪道です。あなたが主から見放されている証拠です」と暗示するようなことを、言ったりするためである。
しかし、注意しよう。主の愛が、分割されたり、分配されたり、加減されたり、ということは、ない。
主は、この人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。さらに主は、あの人に、ご自分の愛のすべてを、あますところなく注ぎ出していたもう。主の愛は、その意味で、単一である。
しかも、この単一の愛は、単調な愛ではなく、各人に各様に表現される、多彩なものなのだ。
苺の数を誇る(聖霊派)とか、苺がないのを誇る(根本主義)とか、プレゼントに添えられたカードの文法解析にレキシコンと首っ引きで没頭する(福音派)とか、まあ、いろいろな義認の受け取り方があるかもしれないが、重要なことは、わたしが、主から義認を受け取り、その中味であるキリストご自身を味わって食べ、主を喜び楽しむことであろう。