十字架-交換の場-
* Dr.Luke的日々のココロ *より (私もいただいてきました+.(´∀`*).+゚.) 十字架-交換の場-先の記事で"自分の十字架"は自分で問うて下さいな、とお答えしましたが、昨日のメッセージで軽く原則を語っておきました。すなわち十字架は交換の場なのです。私(セルフ)とキリストが交換される場。喩えると-自分でお手伝いをして稼いだ10円玉を5個握り締めている子供に対して、父親が「○○ちゃん、それをパパに下さいな」と求めます。子供はどう反応するでしょうか?自分の達成である10円玉に愛着を置くか、パパの求めに答えるか、これはすべてパパとの関係がいかなるものかによるのです。一方のパパもこの質問をするとき、内心ハラハラかもしれません。だって、自分に対するその子の心が分かってしまうのですから。しかもパパは実はその心の中に500円玉1個を代わりに与える用意があるのです。これがなかなかできないわけで。もし、しぶしぶながら子供が10円玉を明け渡すことができたとします。パパはやや悲しいかもしれません。しかも、もしかするとその子は代わりの硬貨が1個に減ってしまったことに失望するかも知れません。これが私たちの様です。救世軍山谷少佐のメッセージもちょうどこれと同じ内容です。ぜひご参照ください。外なる人と内なる人の交換の場が十字架であることが分かります。10円玉5個、すなわち自己(セルフ)を失う者は幸いです。それは500円玉1個、すなわち内なるキリストを得ること、そのとき私たちはその方の信仰にあって生きる者とされるのです。 我はキリストと同(とも)に十字架につけられたり。されど生く、尚お我にあらず、キリスト我にありて生き給うなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給い、且つ我がために己自らを付(わた)し給いし神の子の信仰に在りて生くるなり。(永井訳)(注) 注:ガラテヤ2:20は実に訳しにくい節です。たとえばヤングの直訳でも with Christ I have been crucified, and live no more do I, and Christ doth live in me; and that which I now live in the flesh--in the faith I live of the Son of God, who did love me and did give himself for me; となります。この信仰は、キリストに対する私の信仰なのか、キリストの信仰なのか。私は永井訳とヤング訳を好みます。それは「私は信仰にあって、すなわち私が生きる御子の信仰」と理解しています。自分で振り絞るのではありません。御子の信仰が私の生きることを可能にする術、あるいは領域であるわけです。ポイントは、私は十字架につけられ、キリストが生きるのですが、同時に私もその御子の信仰にあって生きているのです!このとき、諸々の状況においてかつてのような認知行動パターンをしなくなります。再条件付けがなされるのです。これが私たちの内面の変化、まあ、聖化とも言えるでしょう(しかし体が旧い以上、大脳辺縁系の影響は免れません)。ウォッチマン・ニーがこのような喩えをしています。それはあたかも椅子に座りながら移動するようなものだ、と。動くのは椅子、すなわち私たちの居場所であり、生きる原動力であるキリスト。その中に座り、身を任せたまま、私たちも生きているのです。何と楽なことでしょうか。クリスチャンの歩みはまず座ることから始ります(これは私のバイブルカレッジの「霊的成長コース」で扱っています)。ここに生きるエネルギーの交換があるのです。