お引越し記事2
嬉しい!。・:*:・(*´ー`*人)。・:*:・嬉昨日の透析時間に、御言葉を思い巡らしつつ、祈っていました。どうしようもなく、神様がおられることが迫ってきて、涙が溢れて止らなくなってしまったのだ・・・。こんなにも神の臨在を内に感じたことはあっただろうか・・・・内に主が居られる・・・・確かな確信に満たされた。 今週は司会の奉仕が控えているが、その時に交読する予定の箇所を何度も読み、味わっていくうちに、自分が確かにイエスご自身の内にすっぽりと包まれていることを感じて、ただ、主よ・・と御名を呼ぶことが精一杯。とどめもなく溢れてくる涙を、看護婦さんに気づかれまいと顔を腕で隠し、泣いてしまった・・。例のごとく、大丈夫ですか?と声をかけられてしまったが・・。顔を隠したまま、「はい。」と答えるのが精一杯だった・・・(*ノωノ) 素晴らしい主。。このお方のうちに生かされている喜び!ハレルヤ! アバ父よ、あなたの内に我が魂は憩い、あなたの御顔を仰ぎ見ています。 人が何者なので、このようにあなたが顧みてくださるのでしょう。 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)と語られたお言葉は、真に真実です。あなたが与えてくださる平安は、私のうちで満月のように力に満ち満ちていますから、ありがとうございます。マリアが、イエス様の足元に座っていること以上に、より近くに、あなたのほうから私の内に来てくださったことを感謝します。あなたを信じることはあなたの内に生きることであり、あなたのいのちに生かされることであると知りました。母親の胎に子供が宿っているように、あなたのうちにすっぽりと包まれている、それは、 [しかし、あなた方は、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです](コリント第一1:30)と御言葉に書いてあるからです。ハレルヤ!心から感謝します。今まで、あなたが内にいてくださったのに、何か不足しているかのように、求めてきた不信仰をお赦し下さい。 「 あなたがたは、キリストにあって満ち満ちているのです。」(コロサイ2:10)と書いてあるとおり、すでに、このお方にあって満ち満ちていることを信じます。あなたをすでに得ているがゆえに、すべてのものを得ているとイエスの名によって宣言いたします。御言葉に書いてあることを幼子のように受け入れることは真にあなたの御心であるからです。キリストのうちにこそ、知恵と知識の宝が隠されている!そのお方を内に持っているとは!・・あぁ・どうぞこの人知をはるかに超えるあなたの内にある知恵と知識を御霊によって知ることができますように。パウロは、「この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)奥義ですから、あなたはこれらのことを幼子に示してくださるから感謝します。ゆえに、へりくだった霊をわたしのうちに新しくしてください。 奥義なるキリストを知るのは真にいのちによります。内に与えられたいのちによってあなたを知ることができるからです。このいのち、油塗りにとどまり、初めの愛、御言葉の中に座ります。あなたの名の中に包まれていることを心から感謝して・・・栄光が主に、ただ主にだけありますように アーメン 神の同労者〔キングダムより) 「コリント第一 3:9 「 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」 私たちは同・労・者である。 神はご自分の業を創造されたときのように、「光よあれ」、と語られたら、それができたように、何でもできるお方です。ご自分の御心に従って全部ご自分でできるお方である。そのできるお方が、あえてご自分をできなくされた。イエスという人間性の中に閉じ込められた、自ら。・・イザヤ書には神はこのように話しておられます。「地を見るときにとりなし手がいないので神は悲しまれた」と。私たちがとりなさなかったら、神が業をなせない・・・これはものすごいことだと思いませんか?私たちが何者だというのでしょうか。何者でもない人間をあえて同・労・者にした。私たちの協力なしに神の業は進まないのです。逆に私たちが自己主張して、自分の何かでやってる限り神の業は進まない。この同労者であるという真理は大きな鍵です。私たちがどれだけ同労するかが鍵なのです。私たちの同意なしに聖霊は働かないからです。私たちの同労する意志を持っていることが大切です。神は御胸のままに何でもできるはずなんですが、あえてそれをされない。なぜでしょうか・・・ダビデは祈っています。なぜ人をこれほどまでに御心にかけて下さるのか・・と。しかし、神は私の協力がなければできないと語られるお方なのである。 このような祈りをよく聞きます。 「私を恵みのよき管として用いてください」しかし、この言葉は自己責任がないことに気がつくべきである。わたしは、管であって上から下に流れて出して終わり。私と何も関係ありません。・・・これは間違いです。もし私たちが流し出すならば私の協力がなかったら流れないのです。ですから私たちは祈る時に「恵みのよき管として」ではなくて、むしろ私たちが「私たちが、あなたを楽しみ、あなたの計画に意思を持って同意します」と祈るべきである。勝手に管になって流れてしまうわけではないのである。神は、わ・た・しという存在を経由するのです。私たちという個性を神は用いてくださるのである。イエス様も個性がありました。パウロにはパウロの個性があり、ペテロにはペテロの個性があり、ともにぶつかる時もありました。神はそれぞれの個性を通して用いてくださるお方なのです。私たちの個性、人間性によって神は働きます。ですから、色がつくのです。必ずその人の個性の色がついていくのです。それほどに神は御自分の真理を人間に託してくださっているということです。賜物に対して自己責任を持って関わっていくということ。それほどに神は私たちに託してくださっているという事なのです。 「神はあなたの問題に関わらずあなたを通して働くことができる。またあなたという人のゆえにあなたを通して働くこともできる。」このバランスです。ですから、通り良き管だけではだめなのです。ですから自分を出すことを恐れなくてもいい。多くのクリスチャンは自分を出すのを恐れています。自分を隠す人が多いんです。自分を出してもいいんです。」 キングダムより。 わたしはこのメッセージを聞いたとき、内にとても暖かいもの、つまり、神の愛が自分に流れてきたのを感じました。私自身、奉仕をしていく中で、自分を管として用いてくださいと祈り求めてきたからです。このメッセージの通り、管なのだから、私ではない。と自分に対しても語ってきました。私、で、な、い、神がなさる。・・それが信仰だと思ってきました。ある意味それもあっているかもしれません。しかし、神は私という存在の協力なしに業をなさらないこと。私という個性を用いてくださること。私という存在無視して御自分の御心を勝手になさるのではなく、私を神の同労者としてくださり、私という個性のゆえに用いてくださる。もちろん、私の中にある欠点、たらなさを充分ご存知の上で。。。なのである。それほどまでに、神は御自身を人に委ねてくださった。私自身も、この神の御心に思いっきり委ねたいと思う。・・思いっきり・・そう言うしか言葉が見つからないが、委ねてくださった方に対して、私もすべてを委ねたいとそう思うからです。 「真理はあなた方を自由にする」・・と語られるお言葉は、本当に、アーメンです。御言葉の深さを知れば知るほど、うちは自由になり、平安のうちに安息するからです。主は素晴らしい! 真の権威 「 権威に服すること 」 と聞くと、威圧感を覚えたり、思い描くイメージといったら、縛られるような、また押さえつけられるような感じを受ける人がほとんどだろう。しかし、聖書が語る権威に服するとは、一言で言い表すなら、「座る」ということです。真の権威に服している時、内なる霊は、安息して健やかであるということです。 詩篇23:1~ 主は私の羊飼い。わたしは乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ 御名のために、私を義の道に導かれます。 まことの牧者に従って歩む者の姿がここに記されています。 緑の牧場に、伏・さ・せてくださる。アーメン! 先日、ひるがの高原、牧歌の里に家族で出かけてきました。緑豊かな広々とした牧場に、たくさんの羊や山羊・・本当にのんびりとした、光景が広がっていました。牧場にどっかと座っている羊の姿は、安息して、健やかな姿そのものでした。見ている私たちまで、時間を忘れ、日ごろの労苦も忘れ、羊の姿にすっかり癒されてしましました。一方、山羊!同じ牧場にいてもこんなに違うのかと思うほど、山羊はずうずうしい・・笑 えさを羊に与えようとしたら、山羊は羊の間を割って入り、我先にと、えさ入れまで奪って、食べつくしてしまうのだ。その姿といったら、のどが渇いたおじさんが一気にビールを飲み干す姿そのものだった。 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。 と語られたことがどういうことなのかを、ほんの少しわかった感じがしました・・・。笑 真の牧者が与えてくださるもの・・・私たちの内なる霊を、この羊のように、牧場に伏させてくださる・・のである。人間が与えるような威圧感ではないのである。いこいの水・・ 「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです」キリストの権威から流れてくるもの・・いのちであり、平安、安息の内に憩うことなのです。 たましいを生き返らせ、義の道に導かれる。たましいを生き返らせてくださる。義の道に導かれる・・これを読んで思うことは、人になる。ということだ。何か、霊的な仙人のようになるのではなく、神が、はじめ人をご自身の姿に似せて造られた、人の姿ではないでしょうか。その完全な人の姿が、人としてこの地上にこられたキリスト・イエスご自身そのものに表されていました。キリストイエスのお姿に造りかえられる。=真の人になることなのだ。義もまた=イエスキリストこのお方が、「私が道であり・・」といっておられるからです。真の権威に服することは、人にとって、真の幸いであり、平安と安息があり、さらに、キリストイエスの似姿へと変えられていく幸いな人生なのです。 また、角度を変えてみてみると、このようなこともわかります。主によって真に召されている霊的なリーダーの姿です。教会を治めるリーダーは人間的な権威を振りかざすことでもなく、また、山羊のように我を通す姿ではなく、御言葉に真に服し、羊が真に御言葉にいこい、安らかであるか、それによって養いを受けているか、ということです。また、家庭を治める夫の役割も明らかです。真に家庭を治めるとは、「俺はこの家の主人だ!」的な威圧感によってではない、牧場の羊のように家族が安らかであるかということがバロメーターになるのではないでしょうか。 まことの権威に服する意味を知利、私の内側で、何かホッとしたような、解放感がありました。イエスキリストの足元で御言葉を聞き入っていたマリアの姿そのものであること。キリストの頭に、高価なナルドの油を注いでも何も惜しくはないと思えるほど彼女はキリストを知りました。いのちの水が真に彼女のたましいを生き返らせたのです。キリストの権威に伏し、この方の愛に憩いたいと思います。