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若くして結婚した父と母は、娘が生まれるとまもなく離婚。成長した娘は大学生となり、 父は離れた町で牧師として新しい家庭を築いた。そして、運命の再会。 父は娘の美しさに目を奪われ、娘は父の登場に心を奪われる。やがて二人は、 近親相姦という暗い谷底へと落ちていった―全米を震撼させたベストセラー。 著者自身の実体験を真摯に綴った、人間存在の根源に迫るノンフィクション。 形のないものを定義することは難しいです…。例えば「愛」であるとか。 束縛や所有欲は果たして愛と呼べるのでしょうか。 (それともそれもまた「愛」というものの一面を表すのか) 間違った行為や良心の呵責に苛まれる行為を強いられるとき、心に掛かる負荷に 耐えられず人は理由を求めるようです。 そこに「愛」または「神」という言葉を用いて。 醜い欲を美しい言葉のメッキでおおってもその本質は隠せるものではありません。 娘にこんな関係を求める父親(親なのに!)の気持ちはまったく理解できません。 心を病む者の守護聖人ディンフナのエピソードが象徴的でした。 (ディンフナは妻を亡くしたアイルランド王の娘で、王は彼女との結婚を望む。 彼女は逃げたが王は何処までも追い、そして娘が拒むと打ち首にした) センセーショナル、道徳的にどうなのか、という観点から読み始める人が多いと 思うのですがこの本に描かれているのは父親との関係よりもむしろ著者が、 母親に対して求める愛の方が印象強いです。 子供時代に母から欲しいだけの愛を得られず、冷遇されても尚親を恋しいと思う気持ちが この不幸な関係を生んだのだとしたら、こんな悲しいことはありません。 「わたしたちは、親から無条件に愛を注いでもらえるものだと思って育つ。 だが、無条件の愛というのは、子どもから親への贈りものではないだろうか。 愛を注がずにはいられないのは子どもたちのほうなのだ。 -たとえわたしたちの真の姿がどのようなものであっても。」 (文庫本P170より) 愛を与える、伝えるといったことは大人よりも子供の方が長けているのかもしれません。 どうして逆じゃないのだろう。どうして大人になると子供時代に簡単に出来たことを 忘れてしまうのでしょう。 子供を育てる、愛する気持ちと自分の人生とを秤にかけてしまう。 比べてはならない、比べられるものでもないのに、どうにもならない思いが 子供より自分を世界の中心に置いてしまう。 親の存在って一体、何だろう…。 “母親”の視点でこの本を読むのは辛いです。 先程「冷遇されても」と書いたけれどこの本を読む限り衣食住において虐待行為が あったわけではないし、表面上はごく普通の親子関係にも思えるからです。 それでも母親と娘、二人の間には目に見えない距離が存在している。 母親の死によって父親との関係も終止符が打たれますが、その最後の数ページは 著者の決意と、硬質で美しい文章とに胸が痛く、涙がこぼれてきます。 “母親”“親”である人に是非、読んでみて欲しいと思います。 今、自分が子供に与えているもの、与えられずにいるものについて、 きっと考えさせられる筈です。 中山可穂さんの『弱法師』(文庫版)を買いました。 ついに文庫化したのね~!と思うと感慨深いです。 手元に置けるのが嬉しい お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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