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ひかるKunのちょうどのおとうふ

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2015.11.09
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カテゴリ:日々のことば
権利主張に揺れる間は 
安心は得られない
安心は権利主張を 
放棄したときに 
与えられるものである   

【箴言六十七】

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「人は転ぶと、まず石のせいにする。石が無ければ、坂のせいにする。そして、坂が無ければ、はいてる靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない」。これはユダヤの格言である。

 ある人は道路で滑って転び腰の骨を折った。転んだ原因は道路の水が脚を滑らしたものと解釈し、道路に水をまいた人を相手取り損害賠償の訴訟を起こした。大雨で川の土手が決壊し家が流された。土手が崩れたのは政府の堤防補強の怠慢が原因であるとして損害賠償を政府に求めた人もいた。アメリカではたばこを吸わないのに肺ガンになった原因は喫煙者の煙がモトであると、たばこ会社を相手取り治療費請求の裁判を起こした人もいる。また、道ですれちがっても挨拶をしない、気にくわないとして放火し一家皆殺しを企てた人もいる。

 世の中が個人中心になってくると、自己主張しない者は無能力者となり、社会の片隅に追いやる傾向があるが、自分は正しいとしたときは他人は間違っているということになり、こういう社会は安心して生活ができず、どこかの国のように自分の身は自分でまもらざるを得なくなってくる。道端でくるしんでいる人をたすけようとして死なせたときに、殺人者になってしまう社会は魔の世界である。自戒の念を忘れたときは、人間は、動物以下となっていく。エゴに支配されると、自分以外のものはすべて敵となり、不安心理を掻き立てていくのである。

 キリストは自分を主張しなかった。ブッタは、その前世で飢えた親子の虎に身を与えてやった。ソクラテスは罪がないのに毒杯を飲まされた。この世の無常を知り魂の存在を認めたときには、この世の善悪に左右されず、肉体の生死にこだわらなくなるものである。平安はその時、その人を包み、永遠に離れないものである。

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笠島豆富店 ひかるKunのちょうどのとうふ


この頃は何でも裁判!ですよね。

 

そんなことまで訴訟をおこすの?っていう。。







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最終更新日  2015.11.09 20:41:56
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