テーマ:裁判員制度(5)
カテゴリ:裁判員
あと、自分が心にどーしてもひっかかってやまない事件は、真犯人があらわれ出ても、裁判官により、再審がなかなか認められなかったケース、二例です。
ご存知だと思うけれど、これもここでご紹介させてもらうわね。 米谷(よねや)事件 弘前大学教授夫人殺害事件 どーいう神経しているのかしらねw (↓に事件概略を転載させてもらいました) <弘前大教授夫人殺害事件> 1949年8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。8月22日、失業中のN氏(25)が逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決を言い渡す。1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。N氏は1963年1月に仮出所。1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。 N氏は2008年1月24日に死亡。84歳没。 <米谷事件> 1952年2月25日、青森県高田村で女性(57)がごうかん、殺害された。3月2日、村内の米谷四郎氏(30)が逮捕される。起訴直前で自白を翻し、無実を訴えたが、12月25日、青森地裁で懲役10年の判決。翌年の8月22日、仙台高裁で控訴棄却。米谷氏は「金のない者は無実でも泣き寝入りして服役せざるを得ない」と上告を断念して刑が確定。1958年4月に仮出所した。 1966年4月、東京で窃盗などで裁判中の被害者の甥(33 事件当時18)が女性殺害を告白。東京地検は1967年2月に起訴。1968年7月、東京地裁は無罪判決を言い渡すが、検察側控訴中の1970年5月、甥は自殺した。 米谷氏は1967年、日弁連へ救済を訴え、同年8月、青森地裁へ再審請求した。1973年3月、地裁は棄却したが、即時抗告した後の1976年10月31日、仙台高裁は再審開始を決定。1978年7月31日、青森地裁は無罪の判決を下し、そのまま確定した。慰留せいえきから判明した血液型が米谷氏の血液型と異なる事実、目撃証言は事実上不可能、自白内容に矛盾点が多すぎるなど、粗雑な捜査と強引な確定判決であった。 米谷氏は国家賠償請求を起こしたが、棄却されている。 米谷氏は2006年6月29日に死亡。享年84。 上記、二冤罪事件に関して、『狭山事件と再審』(和島岩吉編)の見解も、ご参考までに転載するね。 米谷(よねや)事件 真犯人が名乗り出て、米谷確定判決を知りながら、あえて検察官がO(甥)を真犯人として起訴し、これを事実として維持している事実があってもなお、再審裁判所が請求を容れないというのであれば、請求人にとっては再審の道を塞がれたも同然で、再審制度は冤罪者のために救済の機能を果しえないものにならざるをえません。 弘前事件 棄却決定は請求人に対して、Tが真犯人であるとの供述が他の証拠と矛盾しないものと評価できる程度では足りず、一〇〇%の真犯人の有罪証明を請求人側に要求し、かつ請求人のアリバイについても一〇〇%の証明がなければ、再審の門は開かないとしたのに等しい判示をなしました。 冤罪を叫び、再審を求める際に、真犯人が名乗り出るというケースは、請求人として僥倖の類に属します。 その真犯人を名乗る者が具体的に自らの犯行を告白する証言をなし、それが他の証拠と矛盾しないと評価しえても、再審開始を認めないとすれば、無辜の救済のための再審制度は存在しないのと同然であります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 26, 2009 12:38:05 PM
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