カテゴリ:つれづれなるままに
「如水 五訓」
一.自ら活動して他を動かすは水なり。 二.障碍に遭いて激し、その勢力を百倍するは水なり。 三.常に己れの進路を求めてやまざるは水なり。 四.自ら潔うして他の汚濁を洗い、しかも清併せ容るるは水なり。 五.洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨と変じ、 凍っては玲瓏たる氷雪と化す。しかもその性を失わざるは水なり。 (黒田如水:黒田孝高) [1546~1604]安土桃山時代の武将。播磨(はりま)の人。初姓、「小寺」。通称「官兵衛」。法号、「如水」。織田信長に仕え、信長死後、秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川方についた。キリシタン大名で、受洗名はドン=シメオン。 「上善若水」(老子第8章) 上善若水。(上善は水の若し。) 水善利万物、而不争。(水は万物を善く利して、而も争わず。) 処衆人之所悪。(衆人の悪む(にくむ)所に居る。) 故幾於道。(故に道に幾し(ちかし)。) 居善地、(居には地を善しとし、 心善淵、(心は淵なるを善しとし、 与善仁、(與(まじわり)には仁を善しとし、 言善信、(言には信を善しとし、 正善治、(正(政)には治を善しとし、 事善能、(事には能を善しとし、 動善時。(動には時を善しとす。) 夫唯不争、故無尤。(それ唯争わず、故に尤(とがめ)無し。) 最上の善を例えるなら水だ。 万物に利沢を与え育て上げ、水自体は利を争おうとしない。 それどころか一般の人が避ける場所、例えば低い土地に居る。 目立たず、万物を潤している。 これが自然の法則に最も近い。 居場所を良い大地にし、澄んだ淵のような静かな心境で、 仲間には仁を、語らいは信頼を、 善いまつりごとで治め、仕事は良く機能し、 時を失するような事は無い。 水の偉大さは万物に順じ争わないこと。 だから咎められるような事は無い。 「天下の至柔、天下の至堅を馳騁す。 有ること無きより出でて、間無きに入る。 吾是を以て無為の益有るを知る。 不言の教え、無為の益は、天下之に及ぶこと希なり」(老子第43章) 世の中で最もしなやかな水は、この世で一番堅い金石をも思いのまま動かす。 一体、水は何処から現れるのか、形が定まっていない水は、どんな隙間の無い所でも自由にしのびこむ。 だから私はしなやかで形にとらわれない生き方が最高と知った。 無言の行動で教え、淡々と恩恵を与える水。世にこれに勝るものは無い。 「天下の柔弱は水に過ぐるは莫(な)し。 而も堅強を攻むる者、之に能く勝る莫きは、其の以て之を易うる無きを以てなり。 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは天下知らざるは莫きも、能く行うこと莫し。 故に聖人は言う。 国の垢を受くる、是を社稷の主と謂い、国の不祥を受くる、是を天下の王と謂うと。 正言は反するが若し」(老子第78章) 天下の中で水ほど柔らかいものはない。 しかも強くて堅いものを攻め、打ち破るには水に勝る力は無い。柔らかい水の本性は誰も変えれないからだ。 世の中、弱いものが強いものに勝ち、柔は剛を制することを良く知っている。しかし誰も、これを実行しうるものは居ない 。 だから、この水の役割を果たす者、国の汚辱を引き受ける人は国の主、国の不幸を引き受ける人が世界の王者と、聖人は言うのだ。 普通、王様は名誉吉祥を受ける人と思われているが、真の王者は万民の罪、国家の艱難を一身で受けるのが任だ。 王様は、きらびやかと見られる常識からは全く逆である。 同様に、正しい言葉は常に反対の如く聞こえるものなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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