第三項排除
哲学の論理は必ず暴力の世界で実現する。言い換えれば、哲学の「起源」は暴力であり、暴力なしには哲学あるいは理性は存在しえない。 今村仁司「排除の構造」青土社これは、実によく分かる。自分自身の散漫な哲学的思惟の帰結からでなく、体験的生活から「直截」思う存分知る事になった多くの体験は今村のこの主張を追体験したようなものだ。「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」(武谷三男、『弁証法の諸問題』)二十歳の頃、この武谷の有名な箇条にふれた。瞬時に思ったのは、技術の成立についていえば、なんと「暴力的」な現出となるだろう、という想念だった。共有された、既知の技術があえて「技術」だとか「スキル」だとか呼称されることはない。当然、技術が世に現出するに際しては、それはひとつの哲学的なまでの提起として姿をあらわす筈である。その普及の過程は、政治的な宣撫となんらかわりはない。それゆえに「意識的適用」という語句のもつイメージに妖しい旋律が伴うように危惧された。そんな思い出がある。たとえば、かつて自分は自嘲的に以下のようにベンチャー事業を定義した記憶がある。「ある事業において提起するビジネスモデルが、その革新的新規性の高い保有技術により予想される市場規模ゆえに急成長を実現する可能性を内在するものの,その実現には技術の進歩点の秀逸さゆえに新市場創設を余儀なくされ、過小資本に留まる場合には事業化に失敗する可能性の高い研究開発型ビジネス」笑う他ないのであるが、社会貢献度の高い技術開発がなされていれば、いるほど事業与信の整備された既存事業者の生産財や経営資源に吸い寄せられるように、新規事業モデルはえてして瓦解し、ついには事業収容されてしまうという事例にことかかない。ある意味で、急成長期待型研究開発ビジネスの多くの課題は「暴力的」な実力に依存している。そのように達観しても間違いはない。