「勝って」どうするの?
筑紫哲也の番組NWES23で、<年末SP大格差社会05勝ち組負け組分かれ道 >というのをやっている。たまたま、テレビをみていたらあれまあ。他ならぬ新発想ビジネスヒントフォーラムの本当のオーナー、松島庸ご本人が出てきた。いや、ヒントフォーラムは@niftyが取り潰したわけだから、本当のオーナーだったという意味だ。楽天で、くたばり損ないのおやじ(つまり自分のことだ)が勝手に昔のタイトルをパクッているのは当然知っているだろう。彼が番組で、「負けはしたが負け組だとは思っていない」というのは彼の矜持の所在を示している。まだまだ金が涌いてくる仕組みの渦中で生きていますよ、というメッセージは額面どうり受け止めるとして、個人的には彼が日米同時上場を最年少で果たした時も、いまも「寒い」と感じるだけなのである。我々の社会は、価格と価値の乖離で出来上がった高度資本主義社会ということになっている。この乖離が、不公正であることは実は万人が知っている。知っていてその仕組みを否定するほどの実力を持ち合わせられないでいる、大多数の国民が不承不精折り合いをつけながら喘いで過ごしているという。それが「負け組」と蔑称されている人たちの日常ということになるらしい。しかし、これは結局は技術の問題なのだ。技術というものは、つまるところ物理力で不公正を客観的法則性として駆使しうる人間だけが、いまの時代でいわれる「勝ち組」と呼ばれる陣営で過ごすという特権を得られるわけだ。しかし、それは価値とは一線を画した、単なる物理力であるということを誰も指摘しない。指摘しない理由は、そんな真似を行った途端に自身を「負け組」と判別される、やや不本意で屈辱的なまでの現在を直視しなければならなくなるからだと思う。ここで、いまマリィ ジョー ♪さんと展開しようとしている思惟は、そんな不公正を(さりとて、公正の所在は誰も知らないときている)前提にした「勝ち」「負け」の二元論から、免れるために必要となる視力と根拠を示そうとの思いからだ。当代勝ち組一派からすれば、まさしくその「思い」そのものが負け組発想だ、という事になるのだろう。