原子力人脈の長嶋天覧試合的構図
「警視庁人脈で固めたから読売は伸びた」と自慢した正力「失業インテリ」や「アカ」の反抗を防ぎながら、安くこき使うためには、それなりに社内の労務支配体制をも強化しておかなければならない。『伝記正力松太郎』では、正力が、「社務の統括をする総務局長には警視庁で当時特高課長であった小林光政、庶務部長には警視庁警部庄田良」を、「販売部長には警視庁捜査係長をしていた武藤哲哉」を任命するという具合に、いわゆる本社機能の中心部分を「腹心をもって固めるやり方」をとったとしている。そのほかにも、警視庁以来の秘書役だった橋本道淳、警視庁巡査からたたき上げて香川県知事にもなったことのある高橋雄豺、「説教強盗」こと妻木松吉の逮捕で知られる元警視庁刑事の梅野幾松などの警視庁出身者を、つぎつぎに引き入れた。 以上の最後の「梅野幾松」は、わたしがいた当時の日本テレビでも、正力の側に必ず控えていた。身辺警護の忍者といった雰囲気の小柄な老人であった。日本テレビには、ほかにも何人かの元警察官がいた。その内の一人は労働組合のある職場の委員に選ばれていたが、当時は執行委員のわたしの耳元で、「木村さん、元警察官を信用してはいけませんよ」とささやいたことがある。「わたしたちは組合の会議や行動をすべて会社に報告しなければならないんです。昔からのしがらみで、逃げることはできないんですよ」というのであった。 もちろん、元警察官のすべてがそうだと断言する気はない。だが、読売に乗りこんだ当時の正力が、社内の要所要所に配置した元部下から常に社内情報をえて、労務支配を有利に進めていたであろうことは想像にかたくない。http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-10-7.html電網木村書店 Web無料公開『読売新聞・歴史検証』以前にもご紹介した「巨魁伝」などの素晴らしい仕事のおかげで、視力の乏しい自分のような人間ですら、正力松太郎が、少年少女野球ファンに長嶋茂雄を与えた好々爺などではないことが読み解きできるようになった。正力が読売新聞社を、徹底して警察人脈で固めたというその中に香川県知事経験者という高橋雄豺の名をみて驚いた。高橋雄豺は、戦前には内務省で警保局警務課長という要職を経験している。あの日本版ゲシュタポ、特別高等警察(いわゆる特高警察)の事実上の指揮指導者だったのだから、おだやかではない。太平洋戦争時代には、読売新聞副社長と兼務しながら主筆として戦争をもっぱら鼓舞する立役者だった。わが妹が生まれる55年には、再び読売新聞社で副社長兼務の主筆に復帰している。この頃に、高橋と呼応するように巣鴨刑務所から読売新聞社主として正力は、日本の野球、読売ジャイアンツの戦後史に圧倒的な存在感を示すことになる。2006.2.16日号週刊新潮は、早稲田大学の有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事を掲載した。同教授は、米国公文書館の公開された外交機密文書からみつけ、「正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実」を明らかにした。 1954.3.2日、中曽根康弘によって日本の国会に始めて原子力予算が上程された。4月に成立すると、日本の原子力政策は巨額の税金を「利権として吸い上げる」構造的汚職の巣窟と化して行った。この時の原子力予算は235億円。 中曽根のこの動きを背後で操っていたのが読売新聞の社主・正力松太郎である。正力は、戦後、戦犯として訴追され、政治生命を断たれた。その正力が戦犯解除されるに当たってCIAとエージェント取引したことが考えられる。同じような経緯で取引した者に戦前の特務機関系右翼・児玉誉士夫がいる。岸にもこの臭いがある。ここでは、まったくの余談であるが高橋雄豺の娘はある有名な人物に嫁いでいる。ほかならぬあの薬害エイズ、元殺人未遂容疑者こと安部英そのひとである。