なぜ女嫌いになるのだろう?
But a close look at the patterns of murderous violence in the U.S. reveals some remarkable consistencies, wherever the individual atrocities may have occurred. In case after case, decade after decade, the killers have been shown to be young men riddled with shame and humiliation, often bitterly misogynistic and homophobic, who have decided that the way to assert their faltering sense of manhood and get the respect they have been denied is to go out and shoot somebody. Dr. James Gilligan, who has spent many years studying violence as a prison psychiatrist in Massachusetts, and as a professor at Harvard and now at N.Y.U., believes that some debilitating combination of misogyny and homophobia is a "central component" in much, if not most, of the worst forms of violence in this country. "What I've concluded from decades of working with murderers and rapists and every kind of violent criminal," he said, "is that an underlying factor that is virtually always present to one degree or another is a feeling that one has to prove one's manhood, and that the way to do that, to gain the respect that has been lost, is to commit a violent act."JR桃谷駅で視力障害者夫婦2人が線路に転落した事件だけでも気の毒で気持ちが重くなるというのに、アメリカのヴァージニア工科大学で一度に32人も射殺された。呆れて絶句するわけだけれども、その後もアメリカ全土で銃器が飛ぶように売れている筈だとの予測を耳にすればもう人間という猿人類の行く末も占える気がしてくるというものだ。先日も、親を無くした雌のチンパンジーが飼育員になついて仲間に戻すのに苦労をされているドキュメンタリーをみていて猿だといってもさすがにチンパンジーぐらいになると可愛くて情も湧こうし、飼育員の涙に貰い泣きしてしまうほどだ。それが、どうも人間の基本的な情緒様式だと錯誤しそうになるのだけれども、昨今凶悪事件犯罪加害者の性癖を事あるごとに聞き知ると、人間はどこでどう間違えるのかとんでもない奇形に進化しているものらしいと痛感する。Dr. James Gilliganという人は、ハーバード大学で教授を務めるほどの精神分析医らしいが氏のご意見では、「女性嫌悪と同性愛嫌悪の複合化した衰弱要素」some debilitating combination of misogyny and homophobia が、他者に対する殺害を含む攻撃衝動の中核的な構成要素だと断じているようだ。まあ、たしかに男にすれば女が恐いとか本能的な畏怖があっても不思議はないとは思うのだけれどもバンジージャンプみたく男を誇示せねばおられないという病的な傾向に追いやられる男というのは、どんな精神形成を遂げてきたのか。暗澹とする。もしかすると、些細な虐待のつみあげでもそういう事になりかねないのだろうか。22歳の Beate Shirota がたまたま日本育ちで偶然にもGHQ民間人要員として日本国憲法草案委員会に潜り込んだ中で「男女平等の条項」 を起草して以来、フェミニストらに留まらず、土井たか子から「素敵な憲法をありがとう」と謝意を述べられて悦に入っておられるのだけれど、理念としての憲法と現実にある歴史的な社会構成の中での男女にとって、軍事占領したGHQにプレゼントされた素敵な「男女同権」というのも、異様な話に映る。Beate Shirota は、好きでもない男と婚姻させられる日本女性の悲劇を目の当たりにした。5歳の頃の目撃印象から、以来刷り込みになったという義務感。日本人女性の悲哀を取り除かねばという強迫的なまでの「正義感」から憲法起草にあたって、まっさきにあの条項を手がけたと証言している。日本国憲法第24条一、婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 二、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 現実には、婚姻が「両性の合意のみに基づいて成立」しているのならば、「家」は出番がなくなり、「家族」はペアの周囲で眺めているだけの存在になり果てるはずだ。だが、果たして本当にそうか?「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」などといわれても、そんな精神で立法府にかよい詰めている代議士先生を寡聞にして知らぬ。つまりは、この条項は理念としては麗しいが、実態としては憲法9条同様に虚構性を帯びている。無論、憲法第24条の規定が日本の男をだらしなく腑抜けにしたなどと言うつもりは更々ない。また、他者に対する攻撃衝動などを形成するに際して憲法の条項などが直接の関わりがあるとは当然思っていない。そんな無茶な意見を述べるつもりはないのである。ただ、一点気になったのは現実に生きるわれわれの生活と意見に対して、どこか高踏的であり、社会のあり方に比べて、ややもするとありうべからざるほど華美な理念に現実を踏み外しそうなほど無理強いはなさらない方が宜しいのでは、という老婆心なのである。少なくとも、こういう多少ともご無理な内容を含んでいるやもしれぬ理念を根拠に威勢の良いご意見や思想が跋扈する時代には、えてして足下の精神に脆さを抱くわれら裸の猿には思いもよらぬ精神の破綻をもたらすことが起こりうるような気がするからだ。今のところ、善良な日本の男たちも、幸いにしてアメリカの事件のような銃器社会でもなく、また奇矯な韓国人学生のような過剰なまでの自己顕示ともとりあえず無縁でいられそうだ。大多数の青年では、せいぜい引き篭もって自責の念に振り回されている程度ですんでいるのかもしれない。しかし、アメリカで起きた事件はいつ何時この国で本格的に「再現」されぬとも限らない。いや、もうその予兆どころか粗暴な振る舞いの兆しはあちこちで散見できているのかもしれない。公共交通機関で猛毒サリンを撒き散らすがごときカルトも発生する国である。油断は禁物という気がする。