日本史の空白
高校日本史で、ウイリアム・アダムスを教えられるのはほぼ数十秒だ。彼が、日本名の三浦 按針(みうら・あんじん)として日本において客死したことの意味は、ほとんど我々は知らないのではないか。自分の高校時代、激しい学生叛乱期で日本史の教師も、世界史の教師も例外なく極左だった。教師も教師だが、生徒も生徒なのである。高校の生徒会は、新左翼ばかり。三派だか、八派全共闘だかしらないが、建設現場から盗んできたヘルメットで着色されシンナーの匂いがウザかった。とりわけ毛沢東語録を読んでいる連中は、首謀者組の中心で自分は心底蔑視されていた。加えて日本史の教師は、赤ヘルでしかも多少美人女優に似ていたために手がつけられなかった。数名の取り巻きがいて、現地闘争になると授業をつぶして生徒を引き連れて出払ってしまう。安保堅持を府立高校で主張していたのは、自分ほか数えても全校で数十名しかいなかったような時代である。アホらしくて、毎日武者小路実篤の全集を読んでいた時代だ。そういう自分が、日本史の教養が欠落しているのは仕方がないとしてもウイリアム・アダムスの存在感に気づかなかったのは不覚である。よくよくウイリアム・アダムスが徳川家康に重用された次第は慎重に凝視する必要がある。徳川家康に、イエズス会に対するよほどの警戒心と危惧がなければ彼との「接見」が実現したはずはない。イエズス会はウィリアム・アダムスを最後まで執拗に処刑することを要求し続けたというのは生々しい。カトリック教団改革派だというが、実態で軍事的謀略工作を駆使していた怪しい陰謀結社であった、イエズス会が日本をどれほど掻き混ぜたやら底知れぬ恐ろしさがある。遠藤周作などという政治オンチのノー天気な小説家は「沈黙」などという勿体つけたヘボ小説を書いているが、あの時代に南蛮渡来の碧眼の連中が無欲恬淡でやって来た筈が無い。明治期のジャーナリスト徳富蘇峰は、イエズス会はキリシタン大名を洗脳しつつ武器、弾薬、火薬を日本国内に流通させるために画策し、その対価として火薬一樽をキリシタン洗礼を受けた女性信者50名とバーターしアジアへ人身売買したなどと喝破していた。これが事実であるかどうかは、検証できないにしても明治期には、このような怪しい挙動を危惧する動きはあったのだ。しかるに初代文部大臣である西周などという極めていかがわしいフリーメーソンが、健常なジャーナリズム精神を歴史解釈から払底させてしまった。(嘘ではない。西周が、榎本武揚らとライデン大学に留学した際、フリーメーソンに入会した署名は彼の地に残っている。)山崎朋子描く「サンダカン八番娼館」は、悲劇であるにしてもあの「からゆきさん」のルーツが、ほかならぬイエズス会であるなど仰天ものだ。だが、検証するにたる歴史仮説だと自分は思う。いずれにせよ、徳川家康は早々とイエズス会らがどれほど謀略的体質があるのかを見抜いていた。その流れがあって、ウイリアムアダムスの重用が重なると私は思わずにいられない。徳川三百年の泰平は、いわばこの接見の瞬間に大きく大勢が決着したような気がする。 最初に来日したイギリス人は、ウィリアム・アダムス(William Adams , 1564-1620)であるとされる。 本来は日本に来る予定はなく、イギリス船で来たわけでもなかった。東洋貿易を目指し、インドを目指していたが、途中暴風雨に襲われた末、5隻中1隻だけが、2年後にやっとのことで、九州の大分に漂流したのだ。 アダムスは、漂着船の代表者として大阪に呼ばれ、そこで徳川家康と面会する。世界情勢に詳しく、科学知識も豊富なこの航海士に好感を持った家康は、アダムスを江戸に招き、将軍就任後、外交顧問に任じて、日本橋に屋敷を与える。 こうしてアダムスは、家康・秀忠の2代の将軍の側近にあって、通訳や外交文書の翻訳、様式帆船の建造、あるいは数学や天文を教えたりして、おおいに期待に応えた。母国イギリスの東インド会社の船隊が国王ジェイムズ1世の国書を携えて来航すると、それを日本文に訳し、家康の返書も彼の手で英訳された。これが、日本最初の英文和訳・和文英訳であるとされている。ちなみに、アダムスの使用していた英語は、「初期近代英語(Early Modern English , 1500-1700)」であった。 こうして始まった日英貿易であったが、オランダ商館との競争に敗れ、アダムスの没後3年でイギリス商館は平戸から撤退することになった。このアダムスの存在は、20年ほどしかなかったが、このとき、日本人が英語にふれる、まずはじめの一歩を踏み出したと言えよう。Arrival in JapanThe Liefde, on the monument to Jan Joosten, in the Yaesu district, Nihonbashi, Tokyo.In April 1600, after more than nineteen months at sea, the Liefde with a crew of about twenty sick and dying men (out of an initial crew of about 100) was brought to anchor off the island of Kyushu, Japan. Its cargo consisted of eleven chests of coarse woollen cloth, glass beads, mirrors, spectacles, nails, iron, hammers, nineteen bronze cannon, 5,000 cannonballs, 500 muskets, 300 chain-shot and three chests filled with coats of mail.When the nine crew members strong enough to stand made landfall on April 19 off Bungo (present-day Usuki, Ouita Prefecture), they were met by locals and Portuguese Jesuit priests claiming that Adams' ship was a pirate vessel and that the crew should be crucified as pirates. The ship was seized and the sickly crew were imprisoned at Osaka Castle on orders by Tokugawa Ieyasu, the daimyo of Mikawa and future Shogun. The nineteen bronze cannon of the Liefde were unloaded and according to Spanish accounts later employed at the decisive Battle of Sekigahara on October 21, 1600.Adams met Ieyasu in Osaka three times between May and June 1600. He was questioned by Ieyasu, then a guardian of the young son of the Taikou, Toyotomi Hideyoshi, the ruler who had just died. Adams' knowledge of ships, shipbuilding and nautical smattering of mathematics appealed to Ieyasu.1600年4月19日(慶長5年3月7日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらが大坂に護送させ、併せて船も回航させた。5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。