5次元で読む「花ざかりの森」
三島由紀夫の処女作「花ざかりの森」には、ちょっと油断ならないなという思いがある。三島の盛名がなって以後に、十代となって自分はかならず通過するべき文芸家としての三島由紀夫の存在感を認めつつも、この不思議な作家をどう考えれば良いのか持て余し続けてきたように思う。同年輩の小説家、浅田次郎などが手放し絶賛する「事情」もわかる。彼が、三島由紀夫を、さながら文芸世界のスーパースターとして心酔した十代をもっているのは、自分に近しいがゆえにタナゴコロで理解はできるのだ。しかし、三島由紀夫を読み進みその作品世界やさまざまな論評を読めばよむほどこの謎のような人物を3次元ではなく、5次元の軸で理解すべきだと思うようになってきた。戦時下の思春期1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。この数行の理解だけでは、「花ざかりの森」が激賞されて1941年時点で処女作として出版刊行された理由を読み解けはしないと思う。この怪力ぶりを、どこか3次元ではなく、5次元で読み解きしてみたい。自分は、新素材のマーケティングではきわめて高いスキルを抱いていると外部から評価されて政府系認定事業者として複数の事業企画書を経済省庁や自治体窓口に提出し認められた過去がある。その理由は、第三次ベンチャーブーム以前に大手商社の物資部も呆れるほどさまざまな新素材や資材系で実働し、調達と新市場を開拓するという実務にかかわっていた。新素材というものは、かならず採用するというぐらい「傾向性」のある市場と当然親しく距離をつめることになる。そのような業界のひとつに、文具流通があった。さまざまなチャンネルの中でも、文具流通は特異な市場だった。わたしの場合、通常の営業行動とは次元が違い尋常な窓口ルート以外、商品開発ルート、事業企画ルート、経営企画ルート、財務ルート、経営上層ルートと、さまざまな交渉チャンネルを横断的に介入するという手法で、このような無茶な切り込みをやる事業者は、前にも後にも少なかったと思う。のちにパソコン通信時代に、営業部屋で、この話題を提供した際に若手営業諸氏から一定瞠目されたのは、営業手法としてもかなり先進的なものを多々含んでいたからだと思っている。つまり、流通についても3次元視線にとどまらず歴史背景や、人脈、コネ、意思決定のプロセスに至るまで緻密に脈をとりながら最後の決済へ寄せてゆくという総合的な営業行動を採用していた。これは新規性の高い開発素材では、不可避な挙動できわめて高いコストを強いられる。つまり大手商社では、販売管理費を忌避したき動機があるゆえに、けして採用しない挙動なのである。彼らは、仕組みで食える。ベンチャー事業者の挙動など、リスクでしかなくせいぜい市場形成期に介入して体力勝負をしかけて成果を海賊行為すればすむと考えるものなのだ。そこであえて自分の流儀を押し通したのであるから、相当幸運にも恵まれていたと思う。話を戻すが、文具流通は結論から言って世間で思われているよりも遥かに不思議な世界だった。表面からはうかがい知れない、戦前の統制経済下でできあがって極めて硬直的なシステムが大手を振ってまかり通っていた。それは今も大差ないかもしれないほどだ。どの業界にも大なり小なり存在するとは思うが、文具業界はその「極右ぶり」が著しい。そう思った。あるとき、文具メーカー中堅下位の経営者の若手と昵懇に話し込む機会があった。これは、わたしの中に相手をそのように誘導できるだけのカードがあったからだ。ノーペア、ブラフでポーカーがやれるような業界ではない。錯綜した工作の果てに、経営者が、じきじきに私とかかわりを抱きたいと思わせる知財上の優位性が相手側事業にうまくジョイントしそうだったのだ。当然、経営者側はわたしを同盟軍に編入しようと胸襟をひろげてきた。その比較的嘱望されて期待値をこめて歓迎をされていた蜜月時期には、経営トップらから文具業界についてさまざまな歴史背景を耳にすることができた。彼らは歴史のある文具事業者の経営トップの子弟であるから、まちがっても現場の営業窓口や資材購買レベルの話題では登場しない事業全史にかかわる話題が登場する。そのとき、三島由紀夫が1941年に処女作「花さかりの森」初版発行するという怪力ぶりについてようやく眼のうつばりが取れる思いが湧いたのである。普段、われわれが資材という意識も抱かずに消費している紙、インキ、ラバー、糊などの資材も戦時経済下では「統制物資」であった。これは歴史を学べば一定知識として理解できる。だが、頭で理解できることが体感レベルで身にしみるというまでに千里の隔たりがある。文具メーカーの経営者は、太平洋戦争開戦前当時の文具製造事業者の存在感はいまでは想像できないだろうと述べた。たとえば卑近なところで、鉛筆や消しゴムのたぐいだ。母親の世代では、運動会で上位入賞者に率先して分け与えられたという。つまり小口現金があれば、するすると就学児童には店頭で買えるという事態になく、鉛筆やノートの入手にも熾烈な競争が働いていたというわけだ。それは大げさにしても、文具資材は、とびきりの奢侈品だったのである。たとえば東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業、三菱内燃機製造株式会社(現在の三菱重工業)に入社した堀越二郎という設計主任が零戦を製作企画する際に、いくら「観念飛行」(いまならばパソコンで実行するシュミレーションを天才設計者の堀越は、頭脳労働で実行していたらしい)の天才的な力量があるとしても、それを設計図に落とし込む紙、鉛筆、消しゴムがなければ設計業務にはならなかっただろう。パソコンとプリンター、プロッターの時代ではない。文具の資材として占める存在感は、今日では考えられないほどにスティタスは高かった。当然、これを扱う文具製造業者は、戦略物資相当を扱う業界として手厚く庇護されていたという。優れて鉛筆の痕跡を消し去る性能の良い消しゴムは、戦時経済下では戦略物資扱いだったというわけである。事実、消しゴムの中に細工された微細な無機材料にいたるまで、文具業界は流通機構に超越して調達が可能だったらしい。これを必要需要規模を遥かに越えて入手し、在庫し、運用すれば、極めて高い高収益事業となりえたわけで、文具業界の寡占傾向は、この「統制経済」時期に形成され戦後を貫徹している。つまり文具製造を表で実行しながら、財務体質は極めて良好となりえる。その時期に、いわゆる事業資産のワクを越えて蓄財し、はては不動産やら各種事業に着手するほどの資産体力を築きあげていたのだという。このような業界の特異な成立背景は、流通や戦後の企業活動だけを眺めていても到底把握はできないのだ。文具製造者の後継者であった、取締役からじかに聞き及ぶながら秀才とはいえど、所詮は十代の学生に過ぎない三島由紀夫が、初版本「花ざかりの森」を刊行するに際して、紙やインキ、装丁資材を一体どのようなワザで調達できたのかを想像して絶句したものである。この稿もふくめて、以下の7月18日からの連続エッセーです。内容の理解のために以下の記事から読み返しくださることを強く推奨します。2008/07/18吉本隆明と「関係の絶対性」