司法が健常に起動しない時
わたしは、なんども日本が「法治国家」であることについて疑義を述べてきた。日本国憲法の、第3章 国民の権利及び義務「基本的人権」という箇条に・・・「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it dose not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs. などとあるが、これらの「個人として尊重」される根拠が「法の下での平等」というのだから法が健常に起動せぬ場合にはこの限りではないということは私には自明のように思われた。つまりこの国の「国家社会主義」的な部分が、たとえ少数者であろうと法とその機能(司法機構)を背後で指揮指導することとなれば 基本的人権などがたちまちその指揮系統にとって単なる「裁量」の対象に堕してしまうのは当然だからである。このことが「日本的な国家社会主義の現在」を暗示しているような気がする。かつて日本の少なからぬ規模の大衆に影響を与えた学生叛乱期をなにがしかの感慨を抱いて通過したはずの団塊の世代が、沈黙し立ち尽くしている情けなさ。ひとつには、彼らがこの件を軽侮していたのか、看過してきたからではないのか。この国の司法体制は見事に国家社会主義の護持者たちで固められているという気がしてならない。つまり神山茂夫たちの述べた「天皇制ボナパルティズム」などという直感に響かないフレームを思い起こさずとも、この国のかたちは一種の「司法ファシズム」に壟断されているといことは実体験レベルでも数えあげられる。