人は状況的な生きもの
すでに紹介した ヤフーチャットに設えられた poti4734氏の「音楽データーベース」にここのところ足しげく通い60年代、70年代の反戦フォークソングをいっきに通して聴いてみた。それらは、いまの40代以下では「マイナーでマニアニックな音楽」だとされているようだ。ところが、どっこい。当時は、それらの音楽こそが主流であって、新宿や大阪城公園などの集会ではつねに鳴り響いており、各地のイベントではステージを席捲する勢いであった。またしても、日本人が歴史を抹消してゆく。あの常道の作用が、ここでも効いているのである。私や同年代の諸兄が、古傷に触られたくないと思うように自分にとっても今となっては面妖な感慨のみ湧くそれらの耳なじみのある反戦歌、プロテストソングを通して聴いていまさらながらに気づいたことがいくつかある。いまとなっては手にいれることも難しい岡林信康の歌曲やら加川良の代表作を何十年ぶりかで聴いてみて思うことは、途轍もない「隔絶感」だ。心理的には、つい昨日のことのように思われてならないにもかかわらず、当時の青春歌謡とおぼしきあたりに自分は皆目共鳴するすべを失っていることに気づく。彼らも変わったに違いない。わたしの方でも激しく変化があったのである。ふたつ、かの時代に歌われたものに予想以上にベトナム戦争の存在感が重苦しく示現していることだ。ノンポリの無責任な学生時代を通過した自分は、ついぞベトナム戦争を強く意識したことは無かったように思うのだが、ふりかえってそれらの歌謡を聴いて思うのはインドシナ半島の戦禍について、過剰なほどの鋭敏さが当時世相に充溢していたのだという感慨だ。ほんとうにあの戦争を沈思していたのかどうかは別にして、戦争で流される流血惨事が報道されるたびに素直に驚愕もし、義憤を感じるということがあったのに違いない。その記憶がなくなっていることについての多少の内省はあるにはある。だが、いま当時の歌声をまのあたりにしてその影響の度合に間合いがとれずに絶句するほどのものだ。「思いつめ」というのだろうか。当時の情報の量、質を考えるといたしかたがないと思う。さはさりながらなのだが、当時の学生や青年労働者の過剰なほどの一途さがこれらの音曲の裾野として存在したということを斟酌すると不気味な思いも湧くのである。そして、気づくのは当時むしろ顕著にノンポリ側であって政治的傾向性の希薄だと信じて疑いを抱かなかった ユーミンや赤い鳥などにも強い反権力的な忌避感が漂っているのに気づいた。時代の空気が反映しているとは言え、人が状況的な生き物であることを如実に示しているような気がする。