人の世は100人ほどの村のようなものらしい・・・
Twitterのおかげで懇意にさせていただいている北海道大学の生物の先生をされていた方から教えを受ける事が多い。「地球が百人の村だったら」という言説は、逆さまであるらしい。どうやら人間はどうころんでも自分の周囲を百人の村という風にみなして生きてしまう動物なのだそうだ。この説、起源はイギリスの生物学者らしいのであるが根拠となるのは人間の脳の容量に拠るものだとの解説だった。人の脳は高度に発達した臓器だが、この機能の真骨頂は村人百人程度の考え方や、その情動を極めて精緻にシュミレーションできるという「共感力」において最適化がされているのだそうだ。つまり、問わず語りに相互理解できるという規模を、脳が優れて保有しているという。しかしながら、それゆえに空間として百人程度が心地良く生きてゆけるという臨界。規模としての限界が自然と生じてしまうのだ、というのである。なるほど、それが我々の身の丈だと思いなせば色々と達観できる事も多い。たとえば、自分のブログなど何十万アクセスがあったとしても詮無い話だ。所詮は面白いと共感いただける方が、この国内外に百人程度。そのあたりがせいぜいであり、その方々の反復訪問でこのブログは維持されている。そう考えたほうが健常という気がする。また、なにかの偶発性があって一日に何千とご訪問があったとしても、それは人間として快適な疎通を維持できるというような規模ではないのだろう。現に、Twitter上で私が数千、数万人とフォロー者が生じたところで私の言動に深く共鳴いただけて、事と次第では話しかけてみようとまで考える人はせいぜい世界規模であったとしても、百人。実際、さまざまな指標でみていても(Twitterにはそういう種のパラメータを簡単に得られるような支援アプリケーションが多数ある)やはりその規模の方達が私の日々のつぶやき、嘆息を読んでくださっているというのが実感なのだ。ひとたび、そのように達観しさえすれば通りすがりの通行人さんに、悪態ついたり挑発してみたりなどというようなWEBぐらしのスタイルがいかに「野暮」なものであるのかが分かるというものである。不思議な事に、子どもは親の考えていることは無意識に到るまでよく読解してくれる。親の背中を観て育つなどというが、子どもというのは親の脳を極度まで脳内で繰り返しシュミレーションをしてしまうものらしい。大きくハズレることもあるのだろうが、それも親の側の無意識の一部だったと納得するしかない。