バイロンの熱望
+バイロンの熱望178.あゝ路なき森に娯樂あり、淋しき岸のへ歡喜あり、誰しも侵し來らざる世界は深き海のそばに、又娯樂は波浪の中に、その親しみに融け去りてわが人間の愛小ならず、自然の愛は優る也、我はかくして過ぎしもの又來るべきものを棄て、口にはたえて述べ得ねど包めぬものを感ずべく宇宙の中に混じ入らむ。179.波まけ、深き濃藍のおほわだつうみ、波あげよ!萬艘ならぶ水軍も爾の上に痕とめず、破滅のしるし人類の附くるはひとり陸の上、其權能のはたらきは岸もろともに止りて、大海原の面の上、破壞はひとり爾の業!こゝに人間のあらび露もあらず、ひとり己に加ふるのみ、其時さながら降り來る雨の滴を見る如く忽然として泡立てゝ、うめきて塵骸沈みさる、墳瑩あらず、棺あらず、哀鐘鳴らず、人知らず。180.人の歩みは爾の途の上にあらず、爾の領は彼の手に入る獲物ならず、爾はたちておのれより彼をふりすて、賤しくもその陸上の破壞にと震ふ力を侮りて爾の胸より空に蹴り、戲れ狂ふ泡沫に震ひて叫ぶ彼を投ぐ、其運命の神の手に、小さき希望、傍の港の上にあるところ、かくして陸にうちつくる -- 彼を其の場に伏せしめよ。181.巖築きしおほいなる都會の壁を雷霆《らいてい》の怒るが如く攻めうちて其國の民おのゝかせ、其帝王をいかめしき首府のもなかに震はしむる艦隊 -- 樫のおほ鯨 -- 其巨大なる肋骨は之を造れる塵の子に爾の君と戰の判者と高く稱號の空しきものを取らしむる -- これらは爾のもてあそび -- 爾の波の泡沫の中にめいらむ雪に似て、波はひとしく碎き去る大「アルマダ」の誇らひとトラファルガーの獲物とを。182.爾の岸は世々の帝國、爾をよそに皆遷る、グリイス、ローマ、アッシリヤ、カルセージかれ何物ぞ?彼等の自由なりし時、爾の波は權力を來し、其のち專制の多くの君主もたらしぬ、彼等の岸は外人に奴隸に又は蕃族に從ひ、彼等衰へて領土は沙漠と干からびぬ、爾さならず、激浪の戲の外變りなし、爾の緑の額上に皺を時劫は書きつけず、天地創造のあけぼのゝ見しまゝ爾波を捲く。183.爾、光榮のおほ鏡!あらしの中に全能の姿おのれを見るところ、あらゆる時になぎに暴《あら》びに、微風、暴風、旋風に、或は極洋凍《こほ》らしめ、或は燃ゆる熱帶に暗澹として高まりて、はてしなく、終なく、崇嚴に、「永遠」の肖像、「無象」の王座!爾の泥の中よりも深淵の怪うまれいづ、諸帶おのおの爾に從ふ、爾は進む、恐ろしく、底なく、獨り、悠々と。184.しかして大洋!われは爾を愛でたりき、わが青春の喜は爾の胸に抱かれて泡の如くに驅られ行く其事なりき、我は小兒の昔より爾の波に戲れき、波は歡喜のものなりき、氣を爽にする海は波を恐れとしつるとも、そは樂しき恐のみ、我はさながら爾の子、我は遠く又近く爾の波に身を任せ、爾の髮に手をかけき -- 今も替らず爲す如く。土井晩翠 訳詩