加賀まりこは六本木のトーテムポールか。
加賀まりこ生い立ち東京都神田区小川町(現:千代田区神田小川町)に生まれ、新宿区神楽坂で成人した、現在も新宿区在住。父・加賀四郎は大映のプロデューサーとして知られ、姪に俳優の田中健夫人の女優、加賀千景を持つという芸能一家の中で育つ。伯父・加賀一郎はアントワープオリンピックで100mと200mに出場しており、ベルリンオリンピックにも役員として選手団に同行、祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉、母方の祖母は神田錦町で貸席を営んでいた松本フミ、伯父・加賀二郎は松竹株式会社元常務、また父方・母方の従兄妹は元女優の岸雅子(のち加賀周子)、シャボン玉ホリデーカバーガールをつとめた加賀美知子、元日本テレビプロデューサーの加賀義二。加賀本人は父似と語っている。姉は13歳年上、兄は12歳年上。小学生の時分より隣町である神田神保町の古本街に通い、澁澤龍彦翻訳の「マルキ・ド・サド選集」を愛読。小さい時から思ったことは何でも口にする歯に衣きせぬ毒舌だったという。また映画で見た、オードリー・ヘプバーンの髪型にするため1人で美容院に行くほどの早熟な子供であった。中学校時代には陸上競技を行っており、2年時には走幅跳で都大会で優勝している。高校生になると行動範囲は広がり、六本木や麻布界隈で飯倉の高級イタリアレストラン「キャンティ」に学生服のまま通っていた。また、キャンティのママの自立した生き方に強い憧れを抱いていたという。なお、六本木野獣会のメンバーと誤解されることがあるが、本人は無関係だと否定し、「野獣会などは田舎者の集まり」と言っている。千代田区の一橋中学を経て明星学園高等学校入学。同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビュー。芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだった。20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事と女性週刊誌がイメージだけで書く記事に嫌気がさし、人生をリセットする目的で半年先のスケジュールまでキャンセルして、単身パリに渡る。それまでに稼いだ金で豪遊のかたわら、イヴ・サン=ローラン、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワーズ・サガンらと交友する。半年が経ち、金が底をつき帰国を考えていた矢先に国際電話で演出家・浅利慶太から「舞台に出るかい?」と舞台出演の打診をされる。帰国後、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演。連日大入りの大盛況で日生劇場始まって以来の大成功となる。この舞台で初めて、女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れる。井上順 13歳で、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾らがいた「六本木野獣会」へ加入し、峰岸にはデビュー前から食事や遊びなどにしばしば誘われ、峰岸が亡くなるまで弟のように可愛がられた。ザ・スパイダース (1966)ザ・スパイダース(The Spiders)は、日本のグループ・サウンズのバンド。1961年に現在は田辺エージェンシーで社長を務める田辺昭知が結成し、ジャッキー吉川とブルーコメッツとともにGSの礎を築いたグループ。ヒット曲に『夕陽が泣いている』、『なんとなくなんとなく』、『あの時君は若かった』などがあり、1970年に解散。当時の音楽の先端であったブリティッシュ・ビートに強く影響を受ける一方、堺正章、井上順、かまやつひろしの3人を主体に繰り広げられる軽妙なやりとりで、コミカルな要素が強い人気グループであった。「70年代のSMAP」と言われている。井上堯之兵庫県立星陵高等学校卒業後は板前だったが、TVのオーディション番組をきっかけに、歌の世界に入る。ザ・スパイダース結成時代は、「スリージェット」という3人組のコーラス&ダンスグループの一員として活躍したが、リバプールサウンド編成に伴い、ギターを独学し、ボーカル・リードギターを担当するまでになった。ザ・スパイダース時代は井上 孝之と名乗っていた。1971年にザ・スパイダースが解散するとPYGに参加し、同時期に井上堯之バンドを率いた。沢田研二のバックバンドとしての活動の他、PYGボーカルの萩原健一が出演したテレビドラマ『太陽にほえろ!』・『傷だらけの天使』や、千葉真一主演のテレビドラマ『十字路』のバックグラウンドミュージックを担当。サントラの作曲、HOUND DOGの音楽プロデューサーをつとめ、1986年の映画『火宅の人』では日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞、1987年には作曲した「愚か者」(近藤真彦歌)が日本レコード大賞を受賞した。