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カフェ・ヒラカワ店主軽薄

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2019.02.23
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カテゴリ:ヒラカワの日常

お客様は神様です

 

 現代という時代は、この子供と大人の境界線があいまいになった時代だといえるだろう。その理由は様々あるのだろうけれど、私は市場経済の隆盛というものが、大きな理由のひとつではないかと考えている。

 今回はそのことを考えてみようと思う。

 もともと、定義も公準もない「大人」や「子供」といった言葉をめぐる考察なので、科学的な根拠のある話ではないし、何か明確な答えが出てくるような問題でもない。寝転んで、お腹でも掻きながら、読んでほしい。


 

お客様は神さまです

 

 さて、市場経済の席巻というものが、大人を消失させたひとつの原因であると書いたけれど、この市場経済は、ある物語を伴って私たちの生活の中に突如として立ち現れてきた。その物語とは「お客様は神様です」という物語だ。

 リアルタイムで、この言葉を聞いた経験を持つ年代は、すでに還暦を跨いでいるかもしれない。この物語を宣言した人物は、浪曲師の南篠文若、後に三波春夫という国民的な流行歌手となった男である。三波春夫は、大変に興味深い人物であり、彼が歌って大ヒットした「ちゃんちきおけさ」に関しては、是非ともお聴きいただきたい秘密があるのだけれど、その話は後半に譲って、まずは「お客様は神様です」について。

 三波春夫がこの言葉を使ったのは、今は亡き名司会者・宮尾たか志との対話の中らしいのだけれど、私たちの世代にとっては、関西のお笑いトリオ「レッツゴー三匹」の、真ん中にいた背の低いリーダーが、白塗りで三波春夫の物まねをして、「お客様は神様です」とやっていたのが、なつかしく思い出されるだろう。紅白歌合戦でも、三波春夫自身が「お客様は神様です」とやっていた。

 金糸銀糸の着物を着て、両手を広げて発声された「お客様は神様です」というフレーズは、その後数奇な運命を辿ることになる。いや、数奇なんて大げさなことではないかもしれないけれど、とにかく微妙にニュアンスを変化させながら人口に膾炙されていくことになる。

 最初は、お客様を持ち上げるというのは悪趣味な太鼓持ちみたいなイメージだったかもしれない。しかし、三波春夫にとってはこの「お客様」はちょっと違う意味を持っていたようだ。彼は、インタビューに応えて、ここで言う「神様」とは文字通り「神様」なんだ、農業の神様とか、技芸の神様とか、観音様と同じなんだという説明をするようになった。おそらく三波春夫にとっては、歌を唄うという行為は神様の面前で執り行う神事のようなものであり、雑念を祓い、虚心になって、誠心誠意その気持ちと声を届けるのだといった、技芸の発生史的な精神が込められていたのだろう。

 同時にまた、そこには戦争で亡くなった同胞に対しての遥かな気持ちもこめられていたはずだ。おそらくは、その戦争で亡くなった同胞に対する思いこそが、三波春夫を他の多くの民謡歌手や、流行歌手と隔てるものなのだけれど、結論を急ぐのは止めよう。まずはこの「お客様は神様です」がどのように読み替えられていったのかを追っていくことにしたい。

 

 

消費者は神さまである

 

 一九七〇年に大阪で世界万国博覧会が催され、三波春夫はそのテーマソングである「世界の国からこんにちは」を唄うことになる。その万国博覧会を契機にして、日本に消費資本主義とでもいうような、消費文化が隆盛を極めていく。まさに、市場経済隆盛の時代である。

 それ以前の高度経済成長期には、冷蔵庫、電気洗濯機、テレビといったいわゆる白物家電が日本中の電気屋に並び、それらが飛ぶように売れていくことで日本人は豊かさを実感したわけだが、七〇年代になると、もはや耐久消費財に対する旺盛な需要は一段落し、専らオシャレや美食、健康といったものにお金を使い始めるようになった。核家族化が進行するのもこの頃で、歩行者天国が始まったのもこの時代だった。

 冷蔵庫や、電気洗濯機といった耐久消費財は、一家に一台というものだったので、それらの購入を決定するのは、一家の大黒柱である父親か、それを裏で支える(あやつる)母親であったわけだけれど、市場に並ぶものが装飾品や、美食のメニューということになると、それらを購入するのは個人であり、多くの場合、若者が小金を持って、自分の好きなものを自由に選び、自由に買えるようになった。

 「お客様は神様です」という言葉は、この頃より「消費者は神さまである」というように読み替えられるようになっていった。

 耐久消費財が一般家庭に行き渡って以後、売り手の側は消費者を探す、探してもいないなら作り出す、ということに躍起になっていった。その中で、市場経済の動向が個々人の消費者によって左右されるという状況が生まれてきたわけである。しかも、その「消費者」とは一家の大黒柱ではなく、ひとりひとり、とりわけ若年層に的がしぼられていったのだ。

 なぜなら、戦後の極貧生活を共有していた大人にとっては、「ぜいたくは敵」という観念がしみついており、自分達の生活の安定もまた儚い楼閣のようであることを知悉していたので、もっぱら剰余の金は貯蓄に回していたからだ。

 

金で買えないものはない

 

 当時、市場で旺盛な消費欲を開放していたのは、若年層だった。伝統的な家父長制度の遺制のなかでは、人間を差別化する指標は家柄であったり、血筋であったり、知識や経験の総量であったり、人脈であったり、人柄であったりしたわけだが、市場経済はそれらの「しがらみ」をあっさりと洗い流し、貨幣という単一の物差しだけが大きくクローズアップされるような傾向が見られるようになった。

 人間というものは、他者と同じでありたいと望むと同時に、他者から羨望されたいと望むという複雑な心性をもった生きものであり、家柄や、人柄、血脈や学歴といったものがもはや価値基準たりえなくなった時代においては、金銭だけがその羨望の対象になるほかなかったのだろう。

 高額なブランド品に多くの若者が魅せられたのは、その商品の使用価値の故でないことは明らかである。かといって、交換価値だともいえない。だとすれば、それは富の象徴としての象徴価値だということになる。

 封建遺制の中では、象徴価値は生まれながらに備わったいわば不公平な価値だったものが、個人の努力しだいで誰にでも手に入る(つまり金を積めば手に入る)時代になったということが言えるのかもしれない。年若い経営者が、市場から吸い上げた金を背景にして「金で買えないものはない」と豪語したとき、貨幣は他の何ものも太刀打ちできない強大なパワーそのものになったのだと私は思った。それはたとえば、大人が大人である条件としての、失敗の経験や知性の蓄積といった、長い時間をかけて積み上げていってはじめて身につくような価値をもなぎ倒していくことができるほどのパワーである。

 この貨幣の万能性信仰が、大人と子供の境界をあっさりと消失させる結果をもたらしたのである。

 

敗残者の嘆き節

 

 さて、三波春夫の話である。

 ウィキペディアを見ると、三波の経歴としてこう書かれている。

 「一九四四年に陸軍入隊し、満州に渡る。敗戦を満州で迎える。敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約四年間のシベリア抑留生活を過ごす」

  敗戦の満州で、三波のいた軍隊は置き去りにされる。そして、捕虜となりシベリアでの抑留体験が始まった。このシベリア抑留の体験がどれほどのものであったかを、戦後に生まれた私たちはうまく想像ができない。いや、おそらく同時代の内地で戦ったものたちでさえ、それは理解を絶した体験であっただろうと思う。

 シベリア抑留の体験を原点として詩を書いた石原吉郎は、このときの凄絶な体験をいくつかのエッセイとして残している。ただ、その語り口はエッセイというには、何かを深く断念した者の遺言のように、沈鬱で重いものであった。ハバロフスクでは、栄養失調と発疹チフスによって多くの捕虜たちが死んでいった。彼はこのときのことを「いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまった」と綴っている。

 彼らを待ち受けていたものは、極東軍事裁判とは無関係の「かくし戦犯」としての地位と、ソ連という国家への犯罪者という烙印、さらには抑留後の日本での「アカ」とみなされて生活しなければならない故郷喪失者としての帰還であった。

 しかし、三波春夫には石原吉郎のような悲壮は感じられない。誰もが精神的な負債なしでは潜り抜けることができないような状況にあって、三波はつねに明るい歌声を響かせていたのだ。

 「三波の明るさは、天性のもの。遺伝子そのものが明るい。おそらく、この明るさが戦場やシベリアにおいて多くの人間の命を救ったのだと思う」

  三波春夫をNHKの番組で紹介した作家の森村誠一は、こんなことを語っていた。作家・森村誠一の精神は、三波春夫の何に共鳴したのだろう。

 三波がデビューした当時、作家以前の森村もまた苦しい独り身の修行時代を送っていた。無産にして、頼るもののない一人暮らしの青年にとっては、年の瀬は一年で最も過酷な月である。その象徴が、紅白歌合戦というものを、安アパートの一室で見る大晦日だった。

  「紅白歌合戦というものは、団欒の中で見るものであり、独りで見るものではないとつくづく思いました。独りで見るということは、つらく残酷なことです」

  番組の中で、森村誠一はこんな述懐をしていたのを記憶している。

 当時、紅白歌合戦は日本人が日本人であることを確認する共同体的な儀式の地位を持つ番組であり、同時に全国の屋根の下にはささやかだが手ごたえの確かな家族の団欒があった。要するに、それは親しい者たちと、小さな平安と娯楽を共有するための年に一回の貴重な時間であった。そしてそれが豊かで暖かいものであればあるほど、この共同体の時間の外にいることは、寂しく辛いことのように感じられたはずだ。

 しかし、と森村は続けた。「三波春夫の歌だけは、独りで聞いていても侘しくなく、楽しめたのです」。そして、最も好きな歌として、「チャンチキおけさ」を挙げたのだった。

 私はどちらかといえば、三波春夫よりも、ライバルと目された村田英雄や、三橋美智也が好きだった。しかし、いつだったか、たまたま運転していた車の中で三波の歌を聞いて、凄いな、こりゃ凄いよと思った。そのとき、カーラジオから流れてきたのが「チャンチキおけさ」であった。

 それまで「チャンチキおけさ」という歌に対して私は勝手なイメージを抱いていた。温泉で、芸者をあげて、さあ無礼講という場面で流れるのが「チャンチキおけさ」だったからだ。ガード下の屋台で、上司に対する罵詈雑言で盛り上がり、小皿叩いて怒鳴るように歌うのがチャンチキおけさである。そう思っていたのだ。

 このときのラジオ番組がなければ、私は三波春夫という歌手も、「チャンチキおけさ」という歌も誤解したままであったかもしれない。

 

「こんな悲しい歌はありません。にぎやかで、陽気な歌だと勘違いされている皆さんが多いのですが、これほど、悲惨で、孤独で、暗い、辛い歌はありません」

 曲が流れた後で、三波はこのように、自分の歌を解説しはじめた。いったい、「チャンチキおけさ」とはどんな歌なのだろう。

 時代は一九五七年。一九五〇年生まれの私が七歳のときにさかのぼる。私にはその当時の記憶のかけらがまだ、身体にかすかに残っている。日本が、戦前よりも貧しかったと言われた戦後の数年間を経て、相対的には安定期に入りかけた時代であった。川本三郎に言わせれば「ベルエポック」ということになる。

 しかし、戦争の傷痕が癒えるに従って、新たな敗者も生まれていた。

 陽気で、馬鹿騒ぎの歌と思われている(私が思っていた)チャンチキおけさ。これが、浪曲師・三波春夫の歌謡曲デビューだった。しかし、この歌詞の底にあるのは、出稼ぎや、集団就職で東京へ出てきたけれど、ついに芽が出ない敗残者の嘆き節であった。無産で、無国籍な人々が吹き寄せられた場末の風景であった。やけっぱち、というよりはデスペレートな空気が全体を覆っていた。とても、芸者をあげて大騒ぎする歌ではないのだ。

 ラジオの中で三波は「どうやって、この悲しみを表現したらいいのか。そこがいちばん悩んだところでした」と言っていたと記憶している。明るい三波が、悲しみをどうやって表現するのか。それはハバロフスクで悲しみを潜り抜けてプロの歌い手となった歌手・三波春夫が、自分に突きつけた問いでもあったのだ。

 私は、三波春夫は「大人が大人でありえた時代」の最後の歌い手であったと思う。さまざまな矛盾を自らの身体で引き受けるもの。それが大人が大人であることの条件のひとつだろうと思うからだ。

 森村誠一が出演したNHKの番組で、その「チャンチキおけさ」を歌っている三波春夫の映像を見ることができた。金糸銀糸の見事な和服の衣装でマイクの前に立った三波は思ったよりも静かな調子でこの歌を歌い出した。そして、その瞬間、鳥肌が立った。「明るさを消すことなく、悲しさを表現する」この三波が悩んだアポリアを、彼はその歌の全体で、見事に突き抜けているように思えたのだ。






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最終更新日  2019.02.23 16:27:20
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