カテゴリ:ヒラカワの日常
ずいぶん前(2011年8月15日)になるが、東京新聞に寄稿したものを掲載しておこう。
3.11の原発事故以来、多くの専門家がメディアに登場した。事故はいつ、どのように収束するのか。原子炉のどこが破損していて、どのような対策が可能なのか。漏れ出ている放射能はどの範囲まで届き、どのような防衛策があるのか。人間は、何ミリシーベルトの被曝まで受容できるのか。見解はさまざまで、そのいくつかは事実によって覆された。科学的な思考が要請されたが、信憑やイデオロギーが混入しているようにも思えた。そもそも専門家のあいだで、これほど見解が分かれるのはどういうことなのか。
■専門家の語り口
理由はふたつしかない。多くの専門家と称する人々にとっても原発や放射能について本当には分かっていないか、あるいは多くの専門家が自分の分かっていることよりも優先するものがあるために、嘘をついているかだ。素人である私にはそれ以外の理由が見つからない。……
……専門家である以上、先行研究者の知見については知悉しており、さまざまなデータを分析しているはずである。だから、自分が研究している分野のことは、分かっているはずである(そうでなければ専門家とはいえない)。しかし、専門家が自分の分かっていることがどこまで適応可能であり、どこから先は類推でしかないかということについて分かっているのかというと、疑わしいと言わざるを得ない。……では、嘘をついているという可能性はあったのか。いかに政治色の強い課題であったとしても、かりそめにも科学を志す専門家が自らすすんでデマを撒き散らすとは思えない。だとすれば、彼らはデマにならない範囲で、自らの言説に手心を加えたり、いくつかある可能性の一つを拡大したり、語るべきことを語らなかったりといったことをしたのだろうか。もしそうだとすれば、そうしなければならない理由は、彼らが無意識的ではあっても科学的真実に優先させるなにものかに配慮したということである。
■「国策」の正当化
専門家によって見解が異なると書いたが、原発が大変危険なものであるということだけは、ほぼ全員が一致した見解であるだろう。では、かくも危険で厄介なものをなぜ開発し、運転し続けばならなかったのか。……重要なことは、原発を推進するという「国策」だけが、明確な説明と住民合意なしに先行し、その「国策」を正当化し、実行するために、大量のお金が使われたという事実である。それらの大金は原発の安全確保ではなく、安全神話をつくるために使われた。それが問題を、科学技術上の問題からまったく別の問題へとミスリードしていった。
原発が立地された場所を歩くと、原発記念の箱物が並び、あるいは補助金がおり、雇用を生み出している。広告代理店は本来不要なコマーシャルを作り、多くのタレントや文化人が名を連ねる。それぞれに大量のお金が動き、お金の争奪が始まり、本来のエネルギー問題とは別の問題が生まれる。利権である。原発は遺伝子を狂わせる放射能だけではなく、人間の判断を狂わせる利権をもまた排出したのである。利権は一度生まれてしまえば、その保守に加担するステークホルダー(利害関係者)が増殖する。本来ステークホルダーではあってはならない専門家が、いつの間にかステークホルダーになっている。専門家の意見がかくも分断されているという理由のひとつがここに起因しているとはいえないか。
二十世紀はテクノロジーとマネーの勝利の世紀だった。どちらも万能性を志向するが、万能のパワーの使い方を必ず誤るのが人間というものである。
(ひらかわ・かつみ 立教大特任教授、著書に『移行期的混乱』など) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.10.09 09:35:01
コメント(0) | コメントを書く |