別居して数ヶ月。当事者どうしの話し合いは膠着状態。代理人を立てて解決の糸口を探ろうとしたが、結局徒労に終わった。8月のある日、アスファルトの照り返しの中、汗をふきふき裁判所へ出向いた社長は、窓口で「夫婦関係調停申立書」という用紙をもらって必要事項を記入した上、収入印紙1200円と郵便切手800円を添えて、家庭裁判所へ提出した。離婚調停の申し立てだ。
離婚事件は、まず話し合い。これで解決すれば「協議離婚」となるのだけれど、話がこじれたり、進展しなかったり、かみ合わないとき、国家(裁判所)に中に入ってもらうほかない。離婚の場合、いきない裁判(本訴)を提起して離婚判決をもらうことができない仕組みになっている。まずは離婚調停で話し合うことが必要なのだ。裁判を行う前に調停を行うから、これを「調停前置主義」という。
もちろん、社長は何度か弁護士にも会って相談したが、プロに依頼するのではなく、自分のことは自分で解決したいと思う気持ちが強かった。だから、ほぼ月一回開かれる調停のために、時間を作って自ら裁判所へ出向くことになったのだ。
離婚調停申立から約1ヶ月たった頃、第一回調停期日がやってきた。先だって、家庭裁判所から送付された調停期日通知書には、「あなたと、○○子さんとの家事調停が行われることになりましたので、平成○年○月○日午後1時30分に、△△家庭裁判所6階の調停センター(□□号室)においでください。」と書かれていた。同じものが、別居中の妻の元へも送付されている筈だ。しかし、調停は「話し合い」だから、もしも妻が調停を拒否して裁判所に出てこなかったら、いきなり不成立となる。
果たして、彼女は来るのだろうか。もし、来なかったら離婚訴訟を提起することになるが、時間と費用がかかることは避けられない。仮に費用は仕方ないとしても、時間と精神を裁判に集中させることによって、中小企業の社長としての仕事を犠牲にしなければならないことに強い抵抗感がこみあげてくる。小さいながらも我が腕ひとつで築きあげた会社。従業員の生活も借金の返済義務も、全て自分の手にかかっているのだ。予定の時間よりも少し早く裁判所に着いた夫は、調停室前の椅子に腰を下ろしながら、あれこれ思いを巡らせていた。
と、調停室のドアが開き、名前が呼ばれた。彼は、その声に弾かれるように立ち上がった。