天まで羽ばたく
僕は、町工場で金属を削る旋盤の仕事をしていた。毎日、朝から晩まで仕事をして、仕事のこと以外一切の会話がない。月2万円のボロアパートに寝泊まり、帰ったら寝るだけの生活だ。その繰り返しで、この環境に慣れてしまった。たまに、工場仲間が仕事終わりに飲みに誘ってくれるが、僕は「お金がないので…」と、誘う度に断っている。それが続いて、声をかけてくれる人はもういない。それから、数日後、いつもの朝、従業員がまだ出社していない中、事務のおばさんから、声が掛かった。「のりちゃん、今度、新人が入った、まきさんよ」彼女は、緊張する様、「よろしくお願いいたします」と挨拶をした。「はぁ…」としょうもない挨拶をして、ロッカーに向かった。工場へ入って、自分が作業している旋盤の前に座ると、彼女がやってきた。「のりひとさん、私のことを覚えている?」初対面のとき、顔を見ずに挨拶したし、今、顔みても覚えていない。「いや、覚えていない」「やっぱり、覚えていないんだ。中学生の頃、私は吹奏楽で、あなたは美術部だった」中学の頃の友人だと、そこではっきりした。でも、僕は中学生の頃の友人だとしても感動を覚えなかった。なにせ、いじめや不登校だったからだ。居た友人は、大して覚えていない。「私のこと、覚えていないんだ残念。2年生の時、隣の席だったのに」2年生の途中からは、時々来ていたのを思い出した。不登校だった僕は、登校当日のことを思い出した。先生に席を教えられ、隣の席の女子の顔を思い出した。現在の顔と比べてみたが、ほぼ違っていて、ただ目元が似ている。「思い出した?」「まぁ…」「そういうことだから」もう少し、長話になると思ったが、”そういうことだから”あっけない言葉で会話が止まった。その後は、まきとは会話することなく、朝礼で顔を合わすのみで、話すらしなかった。旋盤で削っている中、仕事仲間に相談された。「のりさん、この削りはどのようにやるか相談してくれませんか?」ベトナムからやってきた、チューさんからの相談だった。図面を見ると、削る穴が深く精度が高い、難しい加工だった。図面の空白に絵を描いて、彼に説明した。彼は、ドラえもんを描くとよろこぶ。あえて、説明にはドラえもんを描く。その笑顔は素敵だ。仕事が終わると、チューさんに私た図面が部品と一緒に置かれていた。それが上司に見つかった。「のりひとの絵は上手いな。チューも喜んでいたよ」「そうですか、それは良かったです」愛そうない顔で話した。その絵が、まきの目にも止まった。「彼は、画家ですよ」「そうなの? どうりで絵が上手い訳だ」「のりさんとまきさんは同級生だそうです」チューが話した。チューは、休み時間にまきとよく会話をしている。僕との関係も聞いたのか…「仕事が遅くなったけど、まきさんの歓迎会を行わないとな」まきは、会社に入って2か月になる。今回は、僕も参加せざる負えなかった…居酒屋は、以前に行ったことがある。数年ぶり」だ。毎回、断ってきたんだから、久しぶりと感じるのは仕方がない。何か行事があると、店の奥の畳部屋でいつも行われる。奥の角で座って、会社の人の会話を静かに聞いている方が性に合っている。それに僕は、アルコールが弱いのでビールは飲まない。唐揚げと枝豆を食べて、その場を過ごす。だが、今回は、角にチューさんが、先に座り僕が座る場所がなくなった。「のりさん、ここに空いているよ」まきの隣に座ることになった。不登校で先生に座席を教えてもらった中学の頃の記憶を再び思い出した。目の前には、社長がいて、その周りには、事務のおばさんがいる。まきが、ビール瓶を片手に取って、社長とその事務員にビールを継いだ。もう、僕の番であることが分かったので、グラスを手に取った。まきは、グラスにビールを注ぐとき、やさしくグラスにビールが注がれる感じが、当たり前なのに異様な感じがした。そのビールを飲めないのに飲み。グラスビールを一気に飲んでしまった。社長からは無理をするなよと声がかかり、「大丈夫です」と返答した。それから、数分後、頭もボーとなって、ざわつく中で寝てしまった。起きると、周りは静かになっていた。テーブルの食べ物もなく、まき以外、誰もいない。声を出すこともなく、様子を伺っていた。「のりくん、そろそろ帰りましょうか?」「だね…」自分の失敗を打ち消すかのように、帰る準備をした。居酒屋の外に出て、まきと二人でしばらくは話さないで歩いた。「のりくんって、もう絵は描かないの?」「なぜ?」「よく部活で絵を描いていたじゃん」「ああ、あの時はね。今は仕事に追われる毎日だよ」無言の時が流れた。何話そうか、僕は迷っていた。すると、まきの方から話始めた。「ねぇ、伊坂先生知っている?」僕は、その先生の名を出されて驚いた。僕が愛した女性だったからだ。「覚えているよ」「その先生、先月、亡くなったんだ」僕は、頭が真っ白になった。伊坂先生は、美術部の担任だった。赤っ恥に話すが、僕は彼女を愛していた。彼女も僕のことを愛していた。ある放課後、彼女と教室で二人っきりになったとき、抱き合ったことがある。それから、何度か抱き合って、お互いに愛を確認するようになった。イケない恋だとしても、好きになってしまったことは仕方がない。それが続いて、彼女は僕が2年生になったときには、別の学校へ移動となった。それからというもの、僕は嫌な噂と友人との間の空気管が溜まらなく嫌になり、学校へ行くことが少なくなった…。「先生ねぇ、のりくんのこと気にしていたよ。今、何をやっているんだって。私もこの会社に働いているんだと入る前は知らなかったけど、偶然に、のりくんに会えたから、何かんも縁かなと思っている」「のりくん、先生を描いていたでしょう?」「何でそれを?」僕は、中1の時、学校で隠れて伊坂先生をデッサンしていたことがある。それを伊坂先生に見つかった。「私を描いてくれてんだぁ~」その時、僕は恥ずかしく感じた。目の前にある花瓶をデッサンしているように、スケッチブックの次ページに描いていた。それだけで、その場は済んだ。その絵は、ほぼ完成していた。部活が終わり、家に帰ってスケッチブックを再度見て、先生に恋をした。「ねぇ、のりくん絵を描いているのなら、私を描いてくれない?」まきが、お願いしてきた。「なぜ、僕に?」「描きたくなかったいいよ」返事を返す言葉はなかった。帰り道、その場で別れた。鈴虫が泣いている9月の夜、綺麗な満月で道を照らしていた。日曜の朝、うちの会社は、月曜日から土曜日まで出勤で、日曜日は休日だ。起きたら、歯を磨きながら、昨日の夜、まきの言葉を思い出していた。絵を描いて欲しいとのこと、なぜ僕なのか、そんなことは分からない。磨き終えると、着替えて、クローゼットを開けた。そこの下に、ボックスがあり、その中に、スケッチブックがある。中学生までのスケッチしかない。それからは、美術などに携わったことがない。スケッチには、小学生の頃から描いた絵がある。一枚一枚、見るとその頃の思い出が蘇ってくる。一枚の絵を見て、思い出した。山茶花の絵だ。”そういえば、山茶花は、誰が持ってきたのだろう…”同じクラスの女子が持ってきた。そこまでは覚えているが、その後だ。描いている途中、花びらが地面に落ちた。描いている絵が少し変わった。練り消しで一部消して、修正したら、一人の女の子がやってきた。「綺麗な絵ね」正直、「ありがとう」と言ったが、皆、校庭で遊んでいるのに、教室の中、僕一人で絵を描いているのは、目立ったんだろう。彼女は…まきだ!!「思い出した!!」独り言を言ってしまった。あの時、彼女は寄り添うように、描いている僕を見ていた。2学期に彼女は転校してきたんだ。まだ、友人もいない中で、一緒に教室にいたんだ。その後、同じクラスの女子に連れ添われ、教室を出て行った。小学生の頃から一緒だったことを思い出した。僕は、鉛筆とスケッチブックを持って、絵を描き始めた。それから、仕事を合間を見つけて、まきに声を掛けた。「今度、絵を描いてあげる。しばらくは、絵を描いていなかったので自身がなかったけど、描けるまで、上達をしてきた」まだ、1日しか経っていないんだけど、来週までには、上手くなっているはず。「描いてくれるんだ。それよりも、来週の休みに映画を見に行かない?」「いいよ」絵のことよりも、デートの約束を立てた。一作日に言われたこと、1日では上達しないと思われたのだろう。デートの日は、生憎の雨、閑散とした駅で、ここに映画館があるとは思えない。まだ、待ち合わせ時間よりも早く、まきはいた。「どこの映画館に行くの?」僕は、待ち合わせ場所と時間しか聞いていなかった。「こんなところに映画館があるの?」「小さな映画館なんだけど、ちょっと離れたところよ」歩いて、数分のところの路地に映画館はあった。大通りではなく、細い路地を通らなくてはならなく、わかり難い場所に店はあった。映画は数本、上映しているらしい。「何の映画がお勧め?」僕はまきに訊いた。「前から観たかった映画で、のりくんもどうかなと思う」家族をテーマとして、妻が病気で、それを夫が介護するという内容だ。映画は、すぐに始まり待つこと無かった。映画が終わり、観た人は席を立ち、目に涙を浮かべているのを見かけた。いい映画だった。だが、まきは、怖い表情だった。「いい映画だったね」まきに声を掛けたが、返事がなく映画館を離れ歩いて、無言の時が続いた。「ねぇ、カフェいかない?」「いいよ。どこにする?」歩いて、直ぐそこにカフェがあったので、そこへ入った。まきと僕は、コーヒーを頼んだ。コーヒーを一口飲んで、まきが話した。「ねぇ、この前、頼んだ絵を描いてもらう話、頼んでいい?」重い雰囲気の中、まきは話した。「いいよ」「そこのホテルでいいかな。作品とホテル代は私が払うから、そこにしましょ」近くの文房具店で鉛筆とスケッチブックを買い、ホテルに泊まった。「どんな雰囲気で描いてほしいの」まきは、上着を脱ぎ、ブラウスも脱いだ。僕は違った意味が感じだ。「ヌードを描いてほしいの?」まきは、無言で脱いだ。上半身、ブラジャー一枚になった。だが、片方の乳が違った。パットが片方だけ付けていた。偽乳だった。まきは、ブラジャーまで外し、パットも外した。すると、片方の乳は、手術の縫い目の跡があった。「私、乳がんで片方の乳を切除したの。さっきの映画で乳がんの妻を演じた役者も語っていたでしょ、ノンフェクションだけど、実際に乳がんになった私は、彼女の気持ちは良くわかる」僕は、息を飲んだ。映画館で、まきが怖い顔をしていたのは、決意をしていたのだと悟った。「上半身裸で描いてほしいの。いい?」「うん」僕は買った鉛筆を削り、何本か用意した。まだ、昼下がり。ホテルの部屋の窓に近く立って、窓の光からまきを照らす。よい構図だ。薄く構図を描き、顔、胴体を描く。それから、細かく描いて行く。描いている時は、無言の時間が流れる。僕は、描くのが早いと小学校の頃から言われた事がある。もう、15分経つとほぼ、形ができてきている。今までの人生の中で、まきはどんな人生を送ってきたのだろうと、体や顔から悟る。顔からは、中学の頃の顔と違い、老けた感じがする。頬の一本一本の線が描いていくうちに読み取れる。上半身の傷は、病気になった人しか分からない怖さ、死への恐ろしさがあったんだろう。乳を切除する選択。その後の生活。その時なってみないと分からない気持ちが伝わってくる。僕は、丁寧にその線を描く、映画で観た妻の気持ちも踏まえて描く、そして、まきが僕を選んで絵を描いてもらう意味を考えて描く。無言の時の中で、僕は描くことに集中していた。まきの顔を描こうとすると、何か穏やかな表情をしていた。何だろうその微笑みは、何を思っているのか。気が付いたところがある。会う前と違って、化粧をしていないことだ。まき自身、素直な自分を見てほしいという気持ちの表れなんだろう。そんな気持ちが描いているうちに感じた。「描き終わった。まき、この絵でどう?」時間はホテルに入ってから2時間もかかっていた。「いいじゃない! 素敵、これで…」気に入られて良かった。「この絵は、どうするの?」まきの目的が気になった。「自分の物として、持っておくだけ」「そうか…」深くは訊かなかった。それから、数日後、まきは退職願いを出して、顔を見せなくなった。僕に何も言わず、会社を去って行くなんて、心配になった。その後、同級生の繋がりで、まきのことを聞くと、病院に入院しているとのことだった。そして、話によれば、末期がんという話だった。病院は聞くことは出来なかったが、その数日後、会社に連絡があり、まきは亡くなったという知らせが届いた。絵を描いてから、一か月しか立たない。絵を描いているときの、まきの微笑ましい笑顔が忘れられない。