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我が社と東芝社との確執は目を覆うばかり。働く立場ではストレスがたまる。
チキンレースであり、子供の争いなので、ニュースについては聞きたくない。 現場では一緒に働いているし、なるべく仲良く、効率よく仕事したいし、しているが。。。 遮断があったり、ツッパリあいがあって、余計な仕事を強いられている。 不愉快だし、いい加減にしてくれといいたい。 でも、進展しないので、昔の愉快(スリリングな)な話を披露することとする。 東芝の経理部長建とは、長いこと(4代にわたり、つきあってきたので、とても親しい思い出がたくさんある。(彼らは、4代とも一橋大学卒のエリート達だった。) 癖もあるし、プライドもあるし、エリート達だし、やっぱり「東芝」だ。 でも、私からみれば、愛すべし「東芝」だった。 そういった話をしようかな。 第一話。 浜松町の半導体事業部は39階に拠を構えていた。 1993年。 仙台でモトローラ社とJVの工場を運営していたので、私は東芝から出向していた部長と 予算の説明で、その39階で予算説明を終えた。 その労いで、半導体経理部長は、階下の食堂で、夕飯をご馳走してくれた。 ところが、途中で、トイレにたった私の上司が、時間がたっても、もどってこない。 かつて、その上司、脳梗塞で倒れたこともあると聞いていたので、心配になってトイレを探しにいった。 案の定、トイレで倒れていた。 さー大変。救急車を呼んで、東芝病院に運ぶ。 米国駐在中に倒れた際に、脳にMRI手術のハリも入っていることも説明。緊張の一夜が過ぎる。 なんとか、意識も取り戻し、数日後には何事もなく退院できたけれど、手に汗握る一夜であった。 この上司、米国駐在中には、脳梗塞もさることながら、リストラを敢行してやってきた後だった だけに、緊張して迎えた方だったが、全体とし楽しく仕事できた間柄だった。 緊張の予算説明とともに、救急車で向かった東芝病院までの救急車とその一夜が忘れられない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年08月23日 13時39分55秒
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