線なんかない
天気のいい日曜日。 家族で車で1時間ほどかけてチカ釣りに行くことになりました。 その途中の一時停止で偶然見た平屋建ての一軒屋に2羽のつがいが巣を作っているのか、出入りしていました。 その瞬間、すずめは足を糸状のものに引っ掛けて、宙ぶらりんになってしまいました。 私『助けなくちゃ』 夫『いいから、(魚釣りに)行くぞ』 後ろ髪を引かれる様な思いでその場をすぎて行きました。 港に着くと、夫と子供たちはチカ釣りを始め、私は車内で読書。 様子が気になり夫たちの元へ行くと、クーラーボックスにチカのほかに、食べても美味しくないと言われる魚も入っていたので海に逃がした。その様子を見ていたほかの釣り客も同じように食べても美味しくない魚を海に逃がしていた。 その魚たちは命拾いして元気よく海へと帰っていった。 ・・・とここまでは良かった。 私たちのすぐ隣に50代位の夫婦がやってきた。 その人たちもチカ釣りに来たようだが、釣れる釣れる・・・ 食べても美味しくないと言われる魚ばかりが・・・。 そして、その魚は海へ返すわけでもなく、足元にどんどん置いている。どんどん増えていくアスファルトの上でバタバタ跳ねる魚たち・・・。でも、釣ったのはその夫婦。 娘に『魚がかわいそう!お母さん、あの人たちに海に帰すように言って!』 私も意を決して、軽い感じでその夫婦に『魚がかわいそうなんで、海に返してあげてもいいですか?」というと、その夫婦は『海に返したら、また針に食いついちゃうでしょ』 こういわれたら私は何も出来ない。 そうするうちにもアスファルトの上に魚は増えていく。 娘には、『おかあさんは助けたいけどこれ以上は出来ないの・・・。でも、○○は子供だから、子供の権限?で、勝手に助けられるよ。』といい、私はその場にいるのが辛かったので車に戻った。 しばらくして、子供たちは目を真っ赤にして戻ってきた。 娘が路上に放置されて苦しんでいる魚を見て、勝手に海に逃がしてあげていると、その夫婦はまだ生きている魚たちを足で踏み、海に『カモメのえさだ!』と投げたらしい。 海は魚の死体でいっぱいになったという。 この日、私は自分がこのような時、どうしたらいいのか 沢山考えた。生き物を大切にする・・・一体どこまで? どこに線を引いたらいいの? あの釣り人を責めることは、違うと思った。 人を善悪で裁くことは出来ない。 一体どこに線を引くの?物事の境界線ってどこ??? そんなことを思っていると 「線なんて、どこにもないのです」 頭の中で声が響いた。 そして、以前TVで観た、 接触事故が多い道路をどのようにしたら事故が少なくなるのか・・・それは、中央車線を消したら事故が圧倒的に少なくなった・・・ということが思い出した。 「そう、線を消すことで、各々が自己の責任においてスピードを緩める等の処置をするのです」 そうなのだ。一人ひとりが注意深くなることが大切なのだ。 線が引いてあるから、人は注意散漫になってしまう。 他人を制することは出来ない。 他人を変えることもできない。 だからこそ人の心に線を引きたくなるが、引けない。 皆愛すべき点をもっている。 今回のあの夫婦も、多分良いところがある。 ○○な気持ちを持つ人は×とは決められない。 だからこそ、一人ひとりがその時その時を注意深く見るのかもしれない。 帰り道、すずめはまだ宙づりのままだった。 一度だけ羽ばたいたように見えた。 助けたかったが、夫はそのまま止まることなく車を走らせた。 私には、いつも助けなくちゃ!というものがある。 でも、どこまでやったらいいんだろう・・・といつも思っていた。 この事に関しても、線なんてどこにもないのだ。 チャネラーさんにこのことを話すと 「命についての勉強をしましたね。 魚のことに関しても、すずめのことに関しても、 そして、どんなことに対しても、 立ち上がれる人が、立ち上がるんです」 と教えてくれた。