カテゴリ:歴史を語る
お話はとんとん昔の「東京オリンピック」の頃のことになります
まあ、お暇でしたらご同伴くださいませ 当事私は本土(松江)から70km離れた電電公社の無線中継所という漁村の丘の上に建てられた職場に勤務をしていました。 世は国を揚げてのオリンピックムードで公社もこの期間中は 「故障修理以外は定期的な無線機の試験、調整はオリンピック中は事務作業を専念として世紀の祭典オリンピックを見てください」という粋なお計らいのたおやかな時代でありました。 オリンピックは色々な場面が交錯してうまく表現が出来ませんが離島でも充分にTVで楽しんだものです N君の発案で「この機会に普通車免許を執りに行こうや」ということで私含めて3人が立候補して上司の承認を得た、費用まで全額支給された時代であった 当事、隠岐島には7km先の海沿いの西郷町(現存)に運転免許練習場(正式名は不明)がありプレハブみたいな管理棟、2コースの未舗装の練習場があって?円/30分で車両を借りて練習場の講師さんに同席してもらって練習の開始となった。 練習車はわずか2台で1台は試験用として上手になってからではないと貸せてもらえなかった。 したがってポンコツ車1台が練習車ということで順番待ちという気の長い話なのだ 見たいオリンピックもそこそこで3人は殆ど毎日自転車で通って練習を重ねた。 期待していたハードルで依田郁子さんが入賞できなかったのはなんともお気の毒であった がっくりとうなだれた淋しそうな彼女を今でも忘れることは出来ない。 前進、バッククランク、バック駐車、坂発車等 一連の行程をやり遂げてなんとなく自信が持てたのは1ケ月後であった(毎日、練習に行けないから) ここは自動車学校ではないので法規、構造なんていうものは自己学習で実技オンリーであった。 1回/月 島根県警から検査官(試験官)が隠岐汽船でやって来てその日が検定試験であった(勿論、試験日は周知されていた) 2つの練習コースがあるが「昨夜は雨天だったから今日の試験は水溜りの少ないAコースだろうか?」 試験と言うものは昔も今も不変だ、受験者の顔つきが真剣そのものなのだ 落ち着いているつもりであったが内心ハラハラドキドキで何回もトイレに通った(笑) 何人目であったろうか? 待望なる私の順番がやってきたのだ・・・・が <何にも面白い事がないではないか>まあ、明日をお楽しみに お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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