カテゴリ:歴史を語る
今朝から「京都山鉾ハイライト」をTVで観ていましたら動けなくなりました
ニュース、新聞ではチョイと見るだけであったが月鉾、まさに動く美術館といわれるだけあって荘厳そのものでありました。 皆さんすべてが主役、いい雰囲気でした。さすが日本の心の故郷京都ですね 眼福致しました さて昨日の続編です 試験官「受験番号と氏名は?」「ハイ、**番の○○です」 「試験コースはもう知ってるね、観てたんだろう」「ハイ、解かっています」と言う会話で発車オーライとなった 外周を一周りして坂道の途中で一端停止、坂道発車OK、クランク、車庫入れを慎重にクリアーして中道に入った。 このコースは外周より狭く対面式になっていないため(試験車は1台のみ)常時「kEEP ライト」を心掛けていたものだから右に寄り過ぎて走行したため「脱輪」してしまった 「万事休す!」である 悪いことは重なるもので前輪が水溜りを跳ねシブキがフロントガラスにかかり一瞬前が見えなくなった途端、坂道用の側面に”ドカン”と当って停止した。 私も驚いたが、もっと驚いたのは「検査官殿」ではなかたろうか。 降りるやいなや運転席側の前面に走り入念に破損部分を点検しているのではないか 不思議なることかその坂道は泥土を積み上げ草ぼうぼうであったため破損を免れたらしい 興奮が去った瞬間プレハブ舎方面を高々と差して「不合格、退場!」と怒鳴った。まるでスポーツで反則違反退場のさまだった。 車の弁償こそ無かったが落第したことは衆目の認めるところとなりその場で下車しベソを掻きながら退場となった。 同僚1人は見事一発合格であったいつしか東京オリンピックも閉幕した頃であった。 この検定制度は1回/月となっているが日本海の荒れる3ケ月は(1~3月)休止期間だ。 さて気を取り直して再度挑戦を試みて練習1ケ月(この度は週休日を利用した) 試験は1回目程度のていたらくではなかった、無事コースを終えて出発点に帰って来たのだが・・・・・・・ 「*、○がいけなかった、一端停止甘い、半脱が1箇所」でまたぞろ不合格となってしまった 3人中2人目のU君も目出度く「合格」となって不合格者は自分だけになってしまった心細さにN係長が勇気付けして下さったのは今日でも忘れがたい 残すのは後1回、その後はのため閉鎖となるからだ。 2つの練習コースを何回にも分けて同じような練習するもアキが来るものだ、一時「止めてしまおうか」とさえ思った それでも先輩に励まされ3度目の挑戦となってしまった。 2回目の注意事項を守って1つのミスも無いように受験生の手本を示すような運転をしたんだが・・・ 試験官「今回はよかったなあ」 私「アレッ俺を覚えていてくれたんかな」 試験官「**さん慎重で良かったんだが3秒時間オーバーで不合格だ!」 なんということか、ヘタなのか、運が無いといおうか・・・・泣きたい気持ちであった 試験官「これで、今年は終了です皆さん練習を積んで今度の試験は4月になります」 泣いても笑ってももうこれっきりであった。 オリンピックさえロクに見ないで頑張った結局は落第と言う悲しい結末となったのである 既に隠岐には冷たい北西の季節風が吹いて小雪さえ舞う季節になっていた 山陰の冬はしぶとい降っては解け、解けては降るの連続で練習場も閉鎖であったし経つにしたがいすっかりこの悲しみを忘れかかっていた。 隠岐の春は遅い、梅の咲く3月突然にも松江に転勤の事前通知が出たのだった。 (中略) 13人の優しい上司、上司の家族、先輩、寮母さん(彼女がいたらなあ・・・・) の5色のテープ、ドラの音、蛍の光に送られてわずか2年であったが隠岐の印象は忘れ難い とうとう、運転免許証をとれぬまま隠岐を「おさらばとなった」のである 泣き泣き別れのテープを握りながら「きっと、やってやる この両手でハンドルを握って・・・隠岐島一周を」 人はこれをバカと笑うかもしれない、しかし、これが私の現役時代の夢として通してきました。 そして、とうとう やっとその時が・・・・・ 次回は最終回です 長いお付き合いに感謝します、おやしみなさい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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