テーマ:運転免許(148)
カテゴリ:歴史を語る
楽しかった2年間の隠岐島勤務を終え自宅通勤30kmの日勤勤務となった
2年間の島生活にハンディは感じなかったが隠岐での仕事内容とはガラリと変わっての最先端技術マイクロウェーブ(極超短波)保守の仕事に付いた。 長距離ダイヤル市外電話回線3500回線、TV回線(NHK総合、教育、民放2回線)の大束回線の保守作業に没頭する毎日であった。 まだ設備の殆どが真空管方式であってトランジスタなんていうものは珍しかった時代である。 「早く一人前になりたい」そんな気持ちで活気ある毎日を送った 一人前とは当時は 1.無線免許を取得すること 2.自動車免許をとること 3.マージャンが出来る事(笑) であった。 仕事は二の次ではなくあたりまえの事なのだ。 1は隠岐時代で取得し、3も隠岐での連夜の猛特訓で下手ながらクリアーでしていた さあいよいよ2への挑戦だ! 自動車学校には当事は事前試験なるものがあって「速成科」に編入してもらった。 今度は自動車学校であったから各設備が完備されていたがどれだけその設備にお世話になったのか全然記憶に無い、2Wほどで待望の「合格」となった 今でも判然としないがもっと喜んでもいいはずなんだが喜びの感激はないのだ その後は工事用車両を運転し山上無人局の試験、点検、建設工事に没頭したものであった。 日本中の各戸に電話ガつきしかも全国自動ダイヤルとなった頃のことだ。 この間に隠岐全土もダイヤル即時網に編入されて懐かしい赴任地の「今津無線中継所」は廃局となってしまったのである その後は周知の如く高度成長の時代の波が押し寄せ田舎町にも無線鉄塔が続々建てられてマイカー時代になりあの当事の悔しさ「きっと隠岐島で運転を・・・」という決意もいつしかすっかり忘れてしまっていた。 (中略) その後、公社民営化、デジタル化と大変革を遂げた当時の電電公社はどこへやら一企業NTTとなってしまって私も凝ってはいないのに「肩たたき」にあって定年5年も残してNTTを31/3で退職する事になってしまったのである <拾う神があった> その時の秋、ドコモのお世話で二次就職採用となった。 ご承知成長著しい携帯電話会社である、担当は島根県の電波調査が主であった。 その頃だ 「隠岐島全島で電波伝搬の調査を4泊5日でお願いしたい」 夢ではないかしらと思った、隠岐に行くのは転勤以来35年ぶりである、待望の「千載一遇のチャンス」到来であった。 既に隠岐汽船はフェリー時代だったから問題は無い、試験装置一式を会社車両に積んでN君との交代運転で知夫里島、島前、島後の道路という道路をひた走りに走った ハンドルを握る手はあの頃の青春を呼び戻す、当事単車の免許はあったので大体の観光ルートは既知であるが大きくなった木々、拡張なった道路、アスファルト道路、新設トンネル、新築の家並み、立派な漁港、そして名所、旧跡すべてが懐かしく涙がにじんでしょうがなかった 悲しいことにこの島も人口流失で当時4.5万人から2万人弱となってしまって何となく活気が無かったのは心残りがする。 連日の好天で全島約300kmを走破した気分は最高で何物にも変えがたいものがあった。 苦節35年 ようやく達成した我が目的は「とっておき(隠岐)の夢」として今も尚心の奥に深く刻まれて隠岐島は第2のふるさととさえ思っている。 これで3回連作読み物の終了です 最後までお付き合い有難うございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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