テーマ:お盆(298)
カテゴリ:自由欄
昨日の日記(8/14)です
今年は霧雨の盆入りの13日であった。 本日は全国的に快晴、気温もほどほどで過ごしやすく気分よくお墓参りを済ませることが出来た 当地区では2戸で新仏があっていわゆる初盆のお宅である。 そのうちの一人、仲好しの先輩のhiちゃんが昨年9月早々逝ってしまった。 BLOGでは悲しいことは敬遠するけど盆の供養のつもりでhiちゃんの想い出を書くことにした。 hiちゃんは昭和15年5月5日生である。555のトリプル5である。 終戦が小学校1年生、日本が今後どうやって復興していくかというよりも毎日の家族の食をどのようにして確保するかが第一であった。 戦後、みんな家族は分担してよく働いた、プラプラしている人は誰もいなかった。 子供はそれなりの仕事があって父母の言いつけを忠実に守ったものである hiちゃん宅は地区の中央に位置していたため自然と子供の遊び場となっていた。誰が名付けたのか「大溝のカド」と呼んで今に至っている hiちゃん宅の屋号は「大溝」したがって彼は「大溝のhiちゃん」とよばれた 公園なんて田舎には一つもなかったしあるといえば神社、お寺くらいな空き地で十分遊べたものであるが残念ながら2つとも我々の地区にはない 下校すれば誰となく「大溝のカド」が学童の溜まりとなった。 男子供は生意気にもだれが喧嘩が強いか、足が速いか、腕力があるか、相撲が強いかといったところに優越感を抱く時代で勉強なんか二の次 学習塾なんて何処を探してもなかった時代だ 陣取り、かくれんぼ、缶けり、コマ廻し等季節の遊びが流行してとても賑やかだった時代で子供がうようよといる時代であったのだ たいていの家には3~4人の子供はいた。hiちゃんは4人兄弟の代1子の長男であった。名誉の子供大将であった。 この先頭に立ってガキ大将振りを遺憾なく発揮したものだった。 当時、子供の自家労働としては家畜の餌作り、風呂焚き、台所の手伝い、子守り・・・・・すべて一人前であった。 hiちゃん宅は分限者で使用人もいたぐらいだから有福だったに相違ない。 ある夕刻いつものように皆で遊んでいたらhiちゃんの父が「風呂が炊いてない、お前は親の言いつけを守らなかった」と言う理由で胸元を掴んで3回平手打ちを放った・・・・ かわいそうに口から血が・・・ 子供心ながら「そこまでしなくてもいいのに・・人前で」と他人ながら腹が立った そういうスパルタ教育を平然と人前でやってのける軍隊気分がいつまでも取れない父親だった。 「喧嘩をするなら先に手を出すな、出されたら2倍にして返せ、喧嘩は平手でやれ、物を持って殴るな、喧嘩は勝て!」 それなりに喧嘩の心得は熟知しておったこととみえる。 といって教育をした父親だったからなにおかいわんやである HIちゃんは日頃明るい性格で(当時だれもそうであったように)大人とでも平然と会話をできた人であったからすごい 「うちの親父があんな気質なもので機嫌をとるのも大変ですけん」 そういってにこにこしながら平然とした猛者であった。 ある日そのHIちゃんが6年生だったと思うが学校内でえらいことをしでかした。 いたずら好きの連中と言うのはどの学級でも有ったがこのHIちゃんはすごかった。 音楽室の午後の1時限であった「キャッー」とも「ギャー」とも判断のつかぬ女先生の悲鳴が教室中に響いた 先生がピアノを弾こうと鍵盤の蓋をあけたら長くなった青大将(蛇)がドタッーと置かれていたのだった それから後の始末記は想像にお任せするがそれを知った担任は激怒し顎が外れるほど殴った 校門の前に立たされてベソをかいたHIちゃんを見たのは今でも忘れがたい それを知った父親はその夜、校長、女先生、担任のお宅に断りに廻ったという その怒りでhiちゃんはその夜は家に入れてもらえなかった。どこで眠ったやら野宿であった。 勿論飯は食えないさぞかし、ひもじい思いだったろう 少しも悪びれもせづ「女先生だから脅かしてやろう」というだけの単純な理由であった・・・・・ 大人になってからも地区の慰労会では酒が入ると悪びれもせずこの事について雄弁に語り続けて笑わせたものだった 長くなったので続編とします・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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