カテゴリ:歴史を語る
毎年この時期になると密かにある日本史の断片を空想する癖がついています
わが鳥取県は西に大山、東に鳥取砂丘という自然美に恵まれた風光明媚なところなのですが(といっておきましょうか・・・) こと日本史上においては何も際立った事件はありません。 それがけっして不満ではありません、嬉しいことです なぜなら平和が一番尊く波風がたつのは御免蒙るのは誰しも同じことだと思います。 ところが、わが鳥取県中部地方(伯耆の国)で僅か70日間ほどですが中世期において全国からその戦況を釘ずけとした事件(船上山の戦)があったと聞いて皆さん驚かれますか 一口に言うと歴史小説「太平記」の時代にまつわるわが校区の悲話を書きたいのが主題ですがその背景を前段として書きますので辛抱して読んで下さい。拾い読みでもよろしいですからね ※あれだけ内乱が「太平記」なんて奇妙な表現ですね太平記とはきっと世相に辟易し平和を願って太平記と題名にしたに相違ありません。 中世の14世紀といえば、日本史上まれにみる内乱の時代でありました。 政権奪取の攻防戦が彼方此方で発生し多くの武士や民衆が亡くなりました、鎌倉幕府の執権北条政権も14代執権「高時」頃にはその終焉が近づいていたのです。 <余談ですが> 今年は大河ドラマ「竜馬」を放映していますがペリー来航以来幕末動乱の世の中でたくさんの人々が非業のうちに死んでいくのはこれからのストーリーなんでしょうが太平記の頃と戦国時代(下克上)織田、豊臣時代はこの比ではありませんね。 正中の乱、元弘の乱(今から670年ほど前)その後の南北朝時(60年)のことで鎌倉時代の終わり頃の時代のお話をします。 王政復古の世の中の再来をと「政権奪還」の野望に燃える後醍醐天皇はこの二つの倒幕事件に関与して失敗に終わりました。 首謀者のなかから密告者が出たというのが正説となっていますね 元弘2年(1332年)正月、笠置山で北条幕府の囚われの身となり先例(承久の乱----後鳥羽上皇)に倣って隠岐島流罪となりました。 3月7日、北条幕府方五百騎に警護され輿で京都を出発、季節がちょうどこの頃であったと思います (昔の暦は陰暦で書かれていますので現在の太陽暦とは約一ケ月遅いと思ってください) 陰暦3月→太陽暦4月 ほぼ今の中国自動車道+米子道(正確には違うのですが大まかなルートを想像していただく為です)経由で島根半島の東突端の美保関の仏谷寺に到着、10日間の風待ちとなりました。 春の追い風の南風を待ったのでしょうか <逸話があるのです>以下、吉川英治先生の「私本太平記」の文章を拝借します あわれな、その一挿話というのはこうである 後醍醐天皇のあまたな御子のうちに瓊子(たまこ)内親王という姫君があった。 おん母は藤原為子。 かの土佐に流布された尊良(たかなが)、讃岐に流布された宗良(むねなが)も、このおん母であるから二皇子の妹にあたるわけで御年16歳であったというから都に置き去りとなった。 「島とやらへわが身も行きたい。島へ行きたい、父君のところへ・・・」 母の為子は既に亡い方であったから、姫は孤独に耐えられなかった。 次女にせがんで、父皇のおあとを慕い、ついに都を抜け出てしまった かよわい足で、しかもはるかな旅を、どんな人々に付き合わされて来たろうか。 とにかく表向きは、「先へ行った三位の局(阿野廉子)の女童です」 という態に装って、ひたすら父の帝のあとを追い、やっと米子の辺は、この美保 関に来て、追いついたといわれている。 しかし、もとより姫のいたいけな願いが、かなえるはずもない また親しく、父帝に会って、最後のお別れを遂げたらしい記録もない。 伝説として残っているのは、米子市福市の「安養寺」にある五輪の塔だけである。 諸伝によれば、身の孤独と、世の荒びに全てを見失った十六の乙女は、この地で黒髪をおろして一宇の庵主(あんじゅ)としてついに果てられ(24歳)たというのである。 「新葉和歌集」には、この妹へ、兄なる尊良(たかなが)の皇子から -------------- 元弘の初め、世の乱れ侍りしに思ひわび、様など変えけるよし(黒髪をおろして一宇の庵主となった)聞いて、瓊子内親王へ申しつかはしける と題して いかでなお 我れも浮世に そむきなむ 羨ましきは すみ染めの袖 と贈られたのに対し、瓊子からの返歌は 君はなほ 背(そむ)きな果てそ とにかくに 定めなき世の定めなければ と、こたえられた二首などが見えるが、果たして、いつ何処でというようなことまでは明確でない。 ただはっきり云えることは、その朝四月初め、美保関を離れた船上における父皇の万感のうちには、瓊子の面影も、ふとお胸には浮んでいたには相違あるまいということだ。 しかし、その父皇には、余りに、かえりみる恨事や未来夢が多すぎている。 いたいけな一姫ぎみだけにへ、そのおん涙は灌(そそ)ぎきれない。 むしろ、霞み行く出雲の岸や、伯耆大山のかなたを見て、 「きっと、還るぞ・・・・リターンマッチで政権奪取を成し遂げてやるぞ」 とひそかな誓いを、その眼(まなじり)に、睨(ね)め捨てておられたのではあるまいか。 「大船二十四艘、小舟共は、数も知らず、遥かに押し出すほどに、いま一霞、心細う、まことに二千里の外の心地もする・・・・<増鏡> ※二千里とは恐れ入りますね約8,000kmということになりますがそれほど中央の人は遠方だと感じたのかもしれません(実際は18里-----70km程度なのです) かくて後醍醐天皇は絶海の孤島へ追いやられた。 前置きが長かったようですね・・・・この前後は皆さん方は学校で学んだことではないでしょうか? 建武の中興前のあの騒乱なんです。 長くなりましたので次回になります。 次回は地区内の瓊子内親王廟の安養寺の写真でもUPさせようと思います。 お疲れ様でした、次回をお楽しみに 3/20から書き始め本日22日にUPしました。20の日記になっていますがご承知下さい(訂正の仕方が解かりません・・汗) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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