カテゴリ:歴史を語る
隠岐の島に流布になった後醍醐天皇は何処でお暮しになったのであろうか
というのが今回のテーマです そんなこと、何処だっていいではないか、1年後には島抜けして建武の中興を成し遂げたのだから・・・ という結果論でみてしまっては歴史は面白くありませんね 2説ありますが私がこれを論評する気は全くありません、古文書を手にして一つもよんだことすらないのです(汗) ですから外野席から紹介をしてみようと思います <隠岐島とは>大小180の島々、左(西):島前 右(東):島後 都を発ち500人の警護に囲まれて、帝は北条幕府の打倒を計画した重要犯罪人という立場であった。 京都六波羅探題では残党狩りも行われたが各地に発起する反北条方も天皇を奪われても倒幕活動を依然として継続中であった。 スキあらば「天皇奪回」を警戒しての護衛であった、決して後醍醐天皇をお衛りするという立場ではなかったのである。 行在説のことなのですが現在2つあるのです..... 一つが島後の国分寺跡、もう一つが島前の別府・・・どうしてこんなことに 「天皇の行在所」の伝承が最初から二箇所であったわけではなく、長い間、全島民あげて「島前西ノ島、別府」にある「黒木御所」と伝えられていて誰も信じて疑うものはなかったのである。 <島前説>黒木御所 この別府には数多くの伝承記録もあるし後世伝承を元とした数多の書画の類も作成されていて至極当然の判断であった しかし、中央の記録「増鏡」には 「海ずらより少し入りたる島後の国分寺といふ寺をよろしきさまにとり払いておはし(在し)まし所とさだむ」と記されていた。 ※おわしまし所:行在所 <島後説>国分寺跡 しかし、これは本土で記録された歴史書で土地感を知らない人の作り事であると思ったのも無理もなかった、伝承のない島後の人でさえ行在所ここではないと思っていたのである ところがである。 近年(日露戦争頃)になって島根県平田市の鰐淵寺から1枚の辰韓が出てきたのである。 鰐淵寺の勤皇の僧「頼源」に後醍醐天皇が宛てた古文書(願文)で 「敬しく曰す発願の事、右心中所願速疾に成就せしむれば、根本薬師堂の造営急速にその功を終え顕蜜興隆致す可きの状件の如し」 元弘二年八月十九日 花押 となっていた。 注釈:北条氏を討ち果たし王政復古の所領を祈られて大願成就なれば根本薬師堂を寄進してやろう。 という天皇直筆の約状であるが、この辰韓は島後の国分寺から頂戴したものであると注釈が書かれてあったというのだ それによって文部省は昭和9年3月13日(後醍醐天皇建武中興600年)に国分寺を国の史跡に指定してしまった。 決め手になったのは以上の2つによるものであった(増鏡、願文) しかし島前別府の黒木御所の伝説、諸説の資料もあるため、これも否定すべきものではないとして、昭和33年、島根県の史跡として指定したのである。 ところがその後になって「頼源」文書の一部に張り紙がしてあるのが判明したという 真実は一体どちらであったであろうか? <吉川先生は> 昭和33年から毎日新聞小説「私本太平記」を書き初めた吉川英治氏はこの喧々囂々たる中で「折衷案」をとられたのであろうか、前半は島後、9月以降は島前説を採用され隠岐脱出は島前を中心とする村上水軍の入念なる計画の下に決行されたと小説では記されている 「折衷案」としてしまったのだが、古来流刑の犯罪人に対しては(特に政治犯)長くはそのまま定住させておくことは危険であった そこが連絡伝達拠点となる恐れがあり、為政者にとっては土地変え、転封を行ってその芽を遮断する必要があったのです。 さすがに吉川先生は偉い方だと思いますね たしか小説家では第一番目の文化勲章を受章なさったはずです。 現在はどうかというと仲良く2つの説が共存してパンフレットも発行されており ますが、伝説が圧倒的に多い「島前、別府説」の方が旗色がいいようですね 島民の方はそれで喧嘩をしている訳でもなく却って私のような第3者がああだのこうだのと酒の肴にしているようですね 結論は冒頭で記した方が一番賢いかも知れませんね ★今回は「赤勝て、白勝て」の外野席応援団からのお話でした★ お疲れさまでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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