テーマ:カメラ片手で歴史探訪紀(3)
カテゴリ:歴史を語る
春も足踏みのようですね、元弘の余話もトボトボと5回になりました。
細かい話になるとまだまだありますが余話の横道となって限りがありません。 それはまたの機会に譲ることとして、最終回にあたってどうしても記しておかないことを思い出し、もう一回を書いて最終回とすることにしました。 郷土の英雄のこと?(戦前のことなんですが・・) 三木一草(さんぼくいっそう)の一人、名和長年でこのシリーズはしめくくりたいと思います 三木一草とは、鎌倉幕府倒幕の際に後醍醐天皇側として活躍した者の中で、特に功績の大きかった4人の忠臣を指します。 楠木(き)正成、伯耆(き)長年(=名和長年)、結城(き)親光、千種(ぐさ)忠顕です。※千種忠顕は隠岐島で後醍醐天皇の身辺の世話をした公家です。 「太平記」では隠岐から脱出した後醍醐天皇が伯耆国名和湊に到着しました。 千種が「この辺りに名のある武士はいないか」と里人に尋ねると、 「名和又太郎長年と申す者こそ、その身さして名のある武士には候はねども、家富み一族広うして、心がさある者にて候へ」 と返事が返ってくる場面で歴史にデビューとなります。 名和長年は歴史上では特に有名ではありませんが、裕福で一族が繁栄しており、度量があると地元では評価されていたんですね。 一説では山陰沖の漁業権、海運権を得ており鰯屋(いわしや)とあだ名されていたとか・・・・ で、この話を聞いて長年を訪ね、「天皇に味方せよ」と下命するのです。 少しおかしいな?と思いませんか 用意周到な計画で隠岐を脱獄!した後醍醐天皇には北条政権倒幕の青写真が出来ていたはずです、だからこそ複数の協力者がいたと思いますね・・・・ 名和港に護送した後は「はい、さようなら」ではあっても次の担当にバトンタッチするべき手筈があってこそだと思いますがね・・・千種忠顕は東奔西走して協力者を探すなんて・・・泥縄!です。 脱出が目的ではありません、「六波羅、鎌倉を攻めて倒幕する」のが最終目的だからすこし間が抜けていると思いませんか? 長年は、一族を集めて親族会議を催きます。 会議で、弟の長重が“たとえ屍を軍門に曝すとも、一天万乗の天子のために戦ったなら、その名を後の代に残し、生前の思い出、死後の名誉たるべし” と意見を出したのです。 ※今流でいえば「カッコイイッー」ということでしょうか(笑) 一族も同意したので「名和一族の名を後世に残そうと」と長年は天皇を擁して船上山で挙兵となりました。 その決意として長年一門は屋敷に一斉に火を放ち家財諸共焼き払ったのです 今でも屋敷跡を掘ると「炭化した米が出てくる」と子供の時先生から教わったことがあります。 何ゆえに、勿体ないですね・・・ そこが長年の決意表明という非凡なる所以です。 全てを焼き尽くしたら何も未練はない、帰るところもないのです、目的はただ一つ勝利あるのみです 全てを失ってこそ命がけになれる事を解っていた人物と思われます 早急な決断なので輿もなく、長年は、後醍醐天皇を背負って船上山に登りここを拠点として戦うことになりました。 人夫を雇って1日で5千石の玄米が船上山(650m)に運び上げられました。 この話を聞きつけて先ず出雲の塩冶高貞が駆けつけます、次々に支援の豪族が終結します、圧巻ですね。勿論天皇も四方八方に「綸旨」の連発です。 さて面目を失った隠岐の判官佐々木清高は兵2千の兵で怒涛の如く隠岐から追ってきました男坂、女坂では大激戦が行われました。 このときのエピソードのひとつとして、名和七郎の意見を取り入れて、白い500反ほど使って旗を作り、周辺の武士の家紋を描いて立て、実際よりかなり多くの兵がいるようにカムフラージュしたと・・・・ この戦いの経過を血眼になって全国の武将が注目しました。 勝てば官軍です、後醍醐天皇は「倒幕命令」を全国に向かって発信します。 笠置山でのリターンマッチ(船上山の戦い)は約70日にわたりました これに呼応して赤坂では楠木正成が再起し、摂津では北条方の足利尊氏が篠村八幡宮で寝返り一気に京都の六波羅探題を攻め、新田義貞が破竹の勢いで鎌倉に乱入して北条時高はじめ家臣400人は東光寺で切腹、北条政権は壊滅してしまったのです。 6月には堂々と都入りした後醍醐天皇の胸中は如何なものだったでしょうか? 「延喜、天暦の公家社会の政治に戻す」とした後醍醐天皇は「朕の審議は未来の先例たれ」と意志の固いところを示します ※これからは自分の発する言葉が今後の法律になるのだ! すざましい覇気ですね、古代でもあるまいに、この政策は全国の武士の反感を買ってわずか3年ほどで建武の中興は頓挫してしまったのは周知の如くです 有名な<二条河原の落書>です このごろ都に流行るもの、野党強盗?綸旨(にせりんじ)・・・・・ 幕府が倒れたといっても、新政の経済的、社会的基盤は弱く、現実から浮き上がっていてここに新政の根本的弱体があったのです。 足利尊氏がその頭目に仕立てられ敵対関係になりました 最後まで忠君だった三木一草も湊川の戦い等で敗れて名和一族郎党も京都で戦死してしまいました。 弟長重が云ったように「桜の花の散る如く」パッとイサギよく散って後世に名を残したのでしょう。 その後、足利尊氏は室町幕府を開くのですが天皇家は60年間にわたり北朝、南朝に別れるという異常な時代が続いてしまいました ・ ・ ・ 再び安養寺に帰ってきました。2回目のUPには桜も固かったのですが見ごろになっていました 5回にわたりダラダラと書いてきました、3回でまとめてしまおうと思ったのですがあれも、これもと思いが多くてついつい長くなってしまいました。 まだまだ面白い逸話がありますが縁があったらその時にでも・・・ ※一説に因れば船上山の戦いは後醍醐天皇の影武者がいたと専らの噂ですが、その証拠も存在しているのです・・・では一体何処に雲隠れしていたんでしょうか?) 瓊子(たまこ)さん、また懐かしい季節(隠岐配流)がやってきましたね 元弘の頃の騒乱時代は去りました。生まれた時代が悪かったですね・・ 安心して ごゆっくりお休み下さい。 吉野山は桜の名所、お父上もきっと桜のもとでお花見をなさっておられることでしょうね(後醍醐天皇は吉野山中に葬られています) 合掌 最後までお付き合いありがとうございました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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