カテゴリ:自由欄
この20日に父が亡くなりました。
大正4年生、享年98才!大往生であった 日露戦争後10年、「ロシアに勝った、勝った」で国は沸き軍神、逸話が 生まれて「列国何するものぞ」と勝って平和の尊さを感じるどころか勝ちおごって「神国日本」が誕生してしまいました。(我が家も日露戦没者の遺族です) その勢いで大陸に勢力を拡大していった時代が父の子供時代だったと思われます。 その頃の、ここ田舎では念願の山陰本線開業となった時代ですが陰陽を結ぶ「伯備線工事」はこれからという時代で村には電気もなくランプの生活、ラジオの放送も大正11年まで待たねばならない時代! そして成人に達してからは大陸では16年戦争が始まり男の人生は中国大陸の戦場へと移ってしまったのはどこの家庭でも共通するところでしょうね 親父は小学2年生で母を亡くしやがて祖父祖母も送り終戦前には実父も51才で死別となってしまった 後妻の育ての母親も63才で亡くなり「人生のはかない無情さ」をイヤというほど味わって育ったに相違なかろう。 その証拠として私の成人式の日であった。 ささやかなお祝いの夕餉を囲んで私にむかって云うには 世間さまは「あのうちは短命だ」と思っているに違いない そんな噂がお前の縁談にさわるるような気がしてならない。俺は若い頃からたくさんの家族を亡くして不遇の人生を送ってきたがこれからは十分に健康に留意し絶対長生きをしてその悪評を追い払うよう努力するからお前もその気持ちで摂生自重せよ! これが私に対する成人式のはなむけの言葉でした。 話しは前後しますが さて長い戦争も終わりました 戦後の農業はまだ牛馬、人力、手作業の時代でしたが病気の一つもせず農業に精を出す一方創生期の民生委員、農業委員、児童福祉委員等、東奔西走した昭和30,40年代頃の頼もしい姿が一番輝いていた頃だったかなあと瞼に浮かび懐かしく思いだされます 長命したおかげで貧しかった時代の日本、繁栄を遂げた日本、そして転変地変の多い平成時代とたくさんの出来事を経験したその証は3年前まで続いた日記と先ほどの決意で 読み取れますがこれが長命のエネルギーの源になっていたかもしれません。 父は生涯健康であったわけではありません 60代頃から頭痛持ちの体質となり年間に数回襲ってくる症状に悩まされておりました。 病院で診察、検査も受けたのだけれども「異常は見当たらない・・・」ということでありました。 不思議な事にその頭痛は2,3日伏せていれば自然に回復するという症状であった。 4,5年前だったか例のごとく頭痛が起こり治ってみたら「突発性難聴」と判断され 片耳の聴覚を失ってしまいました 不運は不運を呼びその1年後に究極の頭痛が起こった。 すでに緑内障で片眼の視力を失っていたが「今度は死ぬかもしれない」これは父親の口癖でしたが頭痛が治まった日々だんだんと視力が無くなって両眼失明という悲しい状況となってしまいました あれだけ健康に注意して長生きしてやると宣告したのに93才のこの悲劇に「哀れだ、情けない」 と嘆きながら手すりを伝う「暗闇の生活」は3年ほどにもなりその姿は 痛々しく哀れでもありました。 高齢になっても認知症もなくしっかりとした父だったが90代で襲ってきたこの不幸がなかったなら晩年はもっとたくさんの幸せな人生が送れたであろうと思うと残念でならない。 しかしこれも長い人生、不自由ながらよく3年もヤケを起こさず家族のいう事も聞いてくれて我慢強く、よくぞここまで耐え抜いたと褒めてやりたい気持ちとあの時もっと優しくしてやれば良かったという自責の念が交錯します この正月から施設で手厚い看護を受けて食べさせ、入浴させてもらってそれなりに充実した人生であった。 こんなに歳をとってしまって「俺の葬式には誰も出てくれないだろう・・・」と嘆いていたがどうしてどうして大勢のお見送りを受けてきっと大満足していることだろう。 みなさま、長い間お世話になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[自由欄] カテゴリの最新記事
|
|