カテゴリ:歴史を語る
まずまずの春のお彼岸日和でしたがここ2,3日寒波が戻ってきたような空模様です
屋外の気温も上がって彼方此方で開花宣言とばかりTVは大騒ぎ(のように思えます)しますが、その話題は置いておいて知らぬふりのようですね。 今回の冬はさほど陰陽(山陰、山陽)に例年ほどの差がなかったのでしょうか、桜の開花が広島、松江が同じ日になるなんて、「ほんにビックリぽん!」です それだけ山陰は過ごし易かったのかもしれません、冬用タイヤのお世話になった記憶もなく、雪掻きも一度もなくて幸いでした。 しかし、大山はのメッカ(と昭和3,40年代は言っていました)は閑古鳥が鳴き、すでに今シーズンは終了となってしまいました。 梅花の開花はすでに終わっていますが我が家にはとんでもない遅咲きの梅があってやっと開花を迎えました 深い意味は解りませんが「花梅」といって亡父は言っていましたが実は付けません。 付けても4,5個で途中で落果してしまいます。 -------------------------- 前回は甘藷の保存の話題でしたが悪い見本を見てもらおうと写真を撮ってみましたので参考にして下さい。 甘藷を段ボールに詰めてその中にフカフカにした新聞紙で包んで南向きの倉庫に保管していたのですが(残り物のクズ芋です) とり出してみました 一見して外見は良さそうに見えるのですが、中はご覧のとうりです 期間中の最高温度32度、最低温度はたかだか-4度でしたが保存温度10度前後をはるかに逸脱しています 煮ても焼いても食えません・・・「この腐れイモ野郎!」ということです。 エッ、これはそのまま、水田跡に放り込み雑草と一緒に耕うんしてしまうので苦にはなりません。 -------------------------- <安養寺>訪問 先日の寒い日でした、町に行った帰り道、年末話が気になって久し振りに安養寺に寄ってみました ここのお寺は檀家さんの少ないお寺ですが、境内は集落の高台にあり平坦で広い面積を誇っています。 本堂の右手には「安養寺尼」の廟所が白梅に囲まれその付近に安養寺尼碑、隆永親王-瓊子の和歌碑、そして安養寺川改修碑等がありますね 近くに1級河川の法勝寺川が流れていますが、この川は鳥取県西部の暴れ川で明治、大正、昭和の三代にわたり氾濫を繰り返し、その復旧工事の工事現場の事務所(伴場)でもありました。 境内は西風が吹き、寒いので誰ひとりすら訪れません。 瓊子内親王没後650年祭を行ったからすでに28年・・・・誰にももう忘れかかっているのかもしれません やがて、没後700年がやって来ます。それをやってくれるものと信じて私たちは継承してきました。 少子高齢化でお先はどうなることやら・・・・・・解りません。 昨年師走、訪問してくださった**氏にもまだ連絡をとっていません。気にはしているのですけどね・・・・ 丁度このころ 討幕運動(元弘の乱)に敗れて笠置山で囚われの身となった後醍醐帝は隠岐流刑となってこの寒風の中國路、伯耆路を北条幕府警護に護送されてこの道を通ったに違いありません。 ----------------- その警護500人一行は津山を過し児島高徳の逸話の地の院ノ庄※を通過し岡山-鳥取県堺の明地峠にさしかかりました。 警護といっても帝の立場は政治犯です、隠岐流布の途中で奪還でもされれば大騒動となるわけそれを警戒しての幕府側の警護団でした。 御醍醐帝「春だというのに頂に雪を被っている、あの高い山は何というじゃ?」 千種忠顕「はあ、伯耆国の大山という山に御座りまする」 御醍醐帝「隠岐国とやらはこの大山の近傍なのか?」 千種卿「いやはや、まだ北方の波濤千里先なる黒木某とかが、帝の仮御所にござりまする」 帝「まだそんなに遥か彼方であるのか・・・」 この一行集団には瓊子内親王は混じってはおりません。 内親王とその従者の2,3人は海沿いの山陰道を通り米子の某所でお父上(後醍醐天皇)と再会したという説が一般的になっています。 そんな、会話を想像しながら我が家へと帰宅しました ※「天莫空勾践 時非無范蠡」 読み : 天コウセンをムナシュウすることナカレ時にハンレイ無きにしもアラズ 訳 :けっして志を諦めてはいけません、忠孝コウセン如き者が帝をお迎えに参りますから ※2 戦前は皇国史観の立場から有名な漢詩で「十字の詩」とも言われておりました。 こんな、無駄話を語る人も随分と少なくなったのを寂しく思います お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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