カテゴリ:歴史を語る
先日叔母(亡父の妹)の家に行った時の話です。
小さい頃から不思議に思っていたのですが・・・・ 日本近代史に興味がある方は読んでみて下さい。 居間の一隅に日本歴史上有名な政治家2人の直筆書簡がそのまま貼ってあるのです このうちの2書をこの度の話題としてみました。 一通目 <書状>末文 若槻礼次郎→国頭慶一殿 拝啓、益々御清過奉リ恭賀に候 随分今回ノ帰県ニ際シテハ御懇篤ナル御接遇に預カリ 衷心ナル*深ク御礼申上候 乍略儀書中**申シ述ベ度如件御座候 匆々敬白(ソウソウケイハク) ??不明なところがあります・・・どなたか読めますか? 何かの礼状のようだ? と叔母は云うのですが・・・・ 「御懇篤ナル御接遇」とは・・・・何だろう? 小生が政治献金の礼状かなと笑ったら、 叔母「慶一じいさんはそんな*政治ドラではなかった」と *政治ドラ:政治好き、我が家を顧みず政治に逆上せる者に対して嘲笑した言葉 それにしても、昭和初期の頃の手紙はこのような書体であり、二十歳そこそこの人物が読み書きしたとは(@o@ !!)驚き!ですね 慶一の趣味は俳句であったという。近所の知識層と句会を催すことを唯一の楽しみとしていた。 <若槻がこの句会に出席して接待を受けたという事でもなさそうですが・・・> ーーーーーーーーーー 【若槻礼次郎】 わかつきれいじろう (1866~1949) 政治家。松江生まれ。帝大卒。蔵相・内相を歴任。1926年(大正15)憲政会総裁となって組閣。30年(昭和5)ロンドン海軍軍縮会議首席全権。31年民政党総裁となり再び組閣したが,満州事変の勃発(ぼつぱつ)により辞職。以後重臣として日米開戦に反対するなど活動した。(人物紹介 WEBより) ーーーーーーーーーー 二通目 <犬飼 毅書>5.15事件で凶弾に倒れた犬養総理です。 <話せばわかる>とは書いてありませんね(笑) 無偏無黨 むへんむとう(どこの会派にも属しない、転じて清廉潔白) 不阿不諂 おもねらず、へつらわず(おべんちゃらをいわず、卑屈なまでに機嫌をとらない) ーーーーーーーーーーーー <5.15事件>とは 1932(昭和7)年5月15日、海軍の若手将校らが犬養毅総理大臣の自宅を襲撃して暗殺した事件 犬養は「話せばわかる」と言ったが、「問答無用!」と言って射殺された。 政党内閣は終わりを告げ、以後、軍部の発言力が強くなることとなりました。 <余談ながら>後年(昭和11年)の2/26事件での首謀者は銃殺刑となりましたがこの事件では恩赦で放免となったそうです。 ロンドン軍縮会議で全権大使となった若槻礼次郎が交わした条約が海軍将校の逆鱗に触れ、後続首相の犬養首相は濡れ衣を着せられました。 ーーーーーーーーーーーー 当主慶一にとって、二人とも隣県で若槻礼次郎は松江出身、犬養 毅は岡山出身 時代は大正末期~昭和初期頃と思われます。 この書は慶一宛とはなっていないので犬養との関係は定かではありませんが若槻との関係があれば程度の差こそあれ、交友があるとみるのが自然のような気がします <当主>国頭慶一 昭和6年病没 享年42歳 三本の糸で繋がる共通点は一体何なのか? 色々と想像が広がります。 慶一家の当時は地主階級で山林保有の家庭で何不自由なく育った。 信用組合(現在の米子信用金庫)の創設者の一人であり、界隈では知名の人物であり創設にあたっては東奔西走して各界の名士とつながりがあったようです。 慶一にとって唯一の趣味は俳句でありました。近郷近在の諸氏との句会にも出かけてこれが唯一の道楽となってしまいましたが、わずか42歳で亡くなりました。 如何なる所以で総理大臣と関係があったのかは解りませんが、2人にはまだ総理になる前のことではないでしょうか? 若槻、犬養とも政界に出て頭角を現してからは趣味(俳句)に興じてばかりはおれなかったでしょう。 それとも、現在と比して、ゆったりとした時代ですので慰めの余興の一つで興じたのかもしれません。 <欄間には>扇帯に漢詩の羅列が 慶一の子たちもすでにこの世を去っていて、頼るのは今津家から嫁いだ叔母であるが嫁入前の事で詳細は不明で断片的に聞いてなんとかこの際のUPとなりました。 (昭和時代に色々と調査したそうですが近所の古老ですらわからなかったそうです) 古老たちが共通して云うのは 「大事な物だから大切にしなさいよ」だけだそうです(笑) したがって想像の域を脱しないところもあることをご承知下さい。 柄にもなく厄介な文に没頭して、ほとほとくたびれました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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